エッセー「国境の島・対馬で日韓関係を思う」

◆ 玄界灘を越えて対馬へ

初冬の玄界灘は大しけだった。フェリーは大きく揺れ続け、やっとの思いで対馬に着く。冷たい雨が降り続き、厳原の街は人も疎らだった。日韓の関係悪化とコロナ禍が重なり、押し寄せていた韓国人観光客は途絶えている。国境の島、対馬は今、どうなっているのか。人々はどんな思いでいるのか。日韓関係を見つめる旅となった。

11月30日12時35分、壱岐・芦部からフェリーで対馬に向った。15分もすると、1800トンの中型フェリーが左右に大きく揺れ始めた。前後にも揺れ出し、高波が時折船底を叩き、「ドォーン」と大きく響く。寒冷前線の通過で、出港前から降り出した雨は激しくなっている。何度も唾を飲み込んだが、耐えられずに甲板に出た。手すりを頼りに左舷に出ると、雨風ともに激しく吹きつけている。舳先からは大きな水しぶきが舞う。揺られながらも咄嗟に後ずさりし、直撃は避けることができた。前方に、雲の垂れ込めた島影が見えた。対馬だった。さらに20分ほど揺られ、フェリーは厳原に接岸した。定刻より4分遅れの14時49分だった。

大荒れの玄界灘は、冷え切った日韓関係のようだった。「揺れましたねえ!」と乗組員に声をかけると、「真冬なら、こんなもんじゃないよ」と笑顔で返された。日韓関係もさらに厳しい冬が来るのかと案じながら、ふらふらと下船した。

◆ 対馬は国境の島だった

 対馬と韓国・プサンの距離はおよそ50キロ。東京と鎌倉に相当する。対馬中部の「烏帽子岳展望所」は標高わずか176mだが、360度の展望が広がる。リアス式特有の入り組んだ入江と大小無数の島で知られる浅茅湾の絶景を楽しむことができた。朝鮮半島の方向を凝視すると、遥か水平線上に小さな島が見える。設置された望遠鏡を覗けば、白いビルも見える。間違いなくプサンだった。玄界灘越しの異国を見つめ、国境の島、対馬を実感した。

烏帽子岳展望台から見た朝茅湾

  対馬は、古来、日本と朝鮮・中国を結ぶ海上交通、交易、交流の要衝だ。その歴史を物語る遺跡・資料には事欠かない。縄文時代早期の越高遺跡の土器は、その文様から朝鮮半島との交流を裏付けている。弥生時代の対馬は、中国の歴史書、魏志倭人伝に「倭国のクニ」として登場する。奈良・飛鳥時代の遣隋使、遣唐使は、当初、対馬経由だったという。厳原ではまず「万松院」を訪れた。対馬藩主、宗氏ゆかりの菩提寺だ。宗氏一族は、鎌倉時代から幕末までの600年にわたって対馬を治め、日朝交流の最前線に立ち続けた。とりわけ、宗義智(19代島主)は徳川家康の命を受け、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役:1592年、慶長の役:1597年)で断絶した日朝の国交を修復する。室町時代からの「朝鮮通信使」も復活し、家康は大いに喜んだという。対馬藩は、12回に及ぶ江戸期朝鮮通信使を送迎し、江戸往復の警護も担った。日朝の善隣友好関係の「舵取り役」を果たし続けた。万松院本殿には、朝鮮国王から贈られた青銅製の花瓶、香炉、燭台の「三具足」が飾られ、通信使の足跡が残っている。本堂脇から始まる132段の石段を登り切ると、山腹に宗一族の墓が並ぶ。朝鮮と向き合い、和平を求め続けた対馬の歩みを見るようだった。

◆ 通信使とは「信を通じる」もの

朝鮮通信使の碑

対馬は穏やかな時代を享受し続けてきたわけでない。国境の島ならではの、緊張と対立という動乱の過去がある。今回訪れた遺跡はごく一部にすぎず、対馬の歴史・文化を紹介する施設に立ち寄っては、関連資料を可能な限り集めた。その資料を読み解くと、対馬が朝鮮・中国とせめぎ合い、和睦を図り、時代に翻ろうされた歴史が見えてきた。

歴史上の対立は、白村江の戦い(663年)に始まる。勝利した唐・新羅軍の対馬侵攻に備えて築城した金田城跡、元と高麗連合軍による元寇(文永の役:1274年、弘安の役:1281年)、朝鮮半島を略奪した倭寇、朝鮮水軍の対馬上陸(応永の外冦:1419年)、二度の朝鮮出兵などに関わる遺跡は、対馬の動乱の時代を今に伝えている。その一方、和平を図った過去もある。応永の外冦では、対馬の宗氏が朝鮮に使者を送り、対馬の生命線、貿易の再開と倭寇の取り締まりに関する約定を結び、関係を修復する。すでに記述したように、朝鮮出兵で断絶した関係も和議によって回復し、朝鮮通信使の再開という、大きな成果を残す。戦後、何かと対立を繰り返し、冷え切ったままの今の日韓関係を思えば、善隣友好関係の証、朝鮮通信使の役割や意味を改めて検証する価値があろう。

森芳洲の言葉「欺かず、争わず」

朝鮮通信使は「信を通じる」、つまり善隣友好の「よしみ」を交わす使節である。この朝鮮外交を対馬藩で担ったのが儒学者、雨森芳洲である。芳洲は中国語、朝鮮語に長け、江戸時代の国際人とも称されている。対馬・厳原の観光情報館を訪れると、入口を入ってすぐの朝鮮通信使コーナーに、芳洲の略歴と業績の展示が目に入った。そこには、朝鮮との外交の心得を記した芳洲の著「交隣提醒」の最後の一節、「互いに欺かず、争わず」と大きく書かれ、「あッ、芳洲だ!」と思わず声を上げた。韓国KBSのラジオ国際放送アドバイザーとして赴任してまもない頃、日韓関係の歴史を調べている際に初めて知った言葉だった。今の日韓関係に照らし、これをどう評価すべきだろうか。その夜、対馬名物、麦焼酎を飲み、アナゴ料理にサツマイモのうどん「ろくべい」を食べるうちも、ホテルに帰ってもずっと自問し続けた。

◆ 対馬で日韓関係を思う

対馬は今、悪化したままの日韓関係に揺れている。2010年代以降、対馬を訪れる韓国人観光客が増え、2018年には41万人となった。宿泊施設の需要を見越して、韓国人が土地・建物の買収を進め、対馬の先行きを懸念する声が高まり、今も燻っている。ところが、2019年7月、日本が半導体素材の輸出管理を強化すると、韓国では「NO JAPAN」運動が起こり、韓国からの観光客が激減する。2020年以降はコロナ禍も重なり、対馬とプサンを結ぶ定期船はすべて運休となっている。韓国からの観光客は今、一人もいない。かつては韓国人で賑わった厳原の街では、閉鎖した免税店や韓国系ホテルが目立つ。

対馬の人口は1970年で6万人、2021年11月末時点でおよそ2万9000人だ。半世紀でほぼ半減し、過疎化も大きな課題である。厳原では朝のラッシュ時でも人通りは少なく、街の人々の思いは複雑だ。みやげ店の店員は「商売では韓国の人に来て欲しい。でも、正直言えば、どうかしら・・・」と言葉を濁す。万松院の売店の主人は「当分来ないでしょ。あてにはしてないけどね」とやや冷めた様子。観光情報館の職員は「対馬を舞台にした、今人気のゲームを使って、対馬を活気付けたい」と積極的な姿勢を見せた。また、今の日韓関係について問うと、あの芳洲の言葉を引き合いに出し、「日本も韓国も対等の立場で、信頼し合えば、仲良くなれるはず」と話す。

KBS時代、筆者はラジオニュース番組のパーソナリティも担当し、「韓国の素顔」と名付けたコーナーを月に1回放送した。日韓交流の最前線を取材し、その活動をインタビューも交えて伝えるものだった。日韓関係が悪化し始めるなか、地道に活動する市民の率直な思いを伝え、相互理解につなげたいと思ったからだった。対馬の旅の途中、奇しくも甦った芳洲の一節は、「真実を以て交わり候を誠信とは申し候」と付け加えて締めくくっている。その思想は異なる文化を理解し対等に交わることの大切さを訴えるもので、「韓国の素顔」の原点ともどこか重なるように思う。

韓国は大統領選挙を来年3月に控えている。日韓関係の行く末は新しい大統領に委ねられるだろう。日韓関係がここまで悪化したのは、その基盤である日韓基本条約を無にする徴用工判決、慰安婦合意の反故などが相互の信頼関係を崩してしまったことによる。韓国の新政権が問われるべきは、有り体の「素顔」、「誠信の外交」とともに、国際社会共通の「法の支配」、「正義」である。対馬からの帰途、何度思ったことだろうか。

                                

羽太 宣博(元NHK記者) 

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