■未来像は東京だけでは描けない
ニュータウンという鉱脈は、面白い。慶大の新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)で出会った闊達な先輩たちに惹かれ、広告会社(博報堂)に就職して20年あまりが過ぎたころ、突然、地元の千里ニュータウンに「目覚めた」。2005年、僕が40代なかばの頃だった。
僕自身の職種は制作職のコピーライターだったが、広告ビジネスはマスメディアと分かちがたく一体化している。しかしその基盤が、今世紀に入って急激に変質してきた。いうまでもなく、デジタル化、ネット化の進展によってである。
これまでのモデルやスキルでは、もたない。自分の社内キャリアも中盤になり、鬱々としていた頃、「人口減少社会を明るく迎え撃つ」という社内研究会のメンバー募集が目にとまった。日本の人口は数年内にピークアウトする。人口減少は国内マーケットの縮小を運命づける。大きな時代の流れが、変わろうとしている。場所は東京。関西支社にいた僕が参加するには、交通費等のハードルがあった。しかし「首都圏ではまだ人口は増え続ける。大阪は半世紀前から経済力の低下と向き合っている。実感のある未来像は東京だけでは描けない」と主張して入れてもらった。人口減少時代に、広告会社はどのような希望を売ることができるのか。
■千里はニュータウンのトップを走っている
東京の電車は混んでいる。ビルもどんどん大きくなる。こんな毎日を過ごしていたら「人が減っていく」未来像を、生活実感を持って描けるはずがない。「生活者実感に根ざす」ことは、博報堂のポリシーと言ってもよかった。そこで僕のチームでは、東京ではなく大阪の、しかも都心ではなく郊外のニュータウンでケーススタディを行うことになった。僕のホームである日本初の大規模ニュータウン、千里ニュータウンでは当時「オールドタウン化」が問題になっていた。高度経済成長期に、短期間で一斉に、当時の人口需要にこたえるため建設されたニュータウンでは、半世紀近くを経て一斉の老朽化・陳腐化・高齢化の解決が課題となっていた。これは日本の先行指標ではないか。千里はそのトップを走っていた。
自分が育って、今も住んでいる町ならば、生活実感も、人脈も知見もある。ここで自分のキャリア観のスイッチが切り替わった。地元の吹田市立博物館では、おりから市民企画で「千里ニュータウン展」(2006年)を行う準備が進んでいて、その中にも個人として入れてもらった。最初は取材で覗いたはずなのに、ミイラ取りがミイラになっていた。千里ニュータウンのことなら、開発当初の工事現場だった頃から目撃している。広告制作は、印刷媒体なら区切られた平面に、電波媒体なら一定の時間枠にメッセージと表現をパッケージ化する作業だが、博物館という大きな空間に、自分の町の記憶を再現するという自由さも面白かった。市民も研究者もメディアも行政関係者もいた。「千里ニュータウン展」は44日間の会期で同館通常2年分の来館者を獲得し、大成功に終わった。
■世界200カ所のニュータウン訪ね歩く
ニュータウンの課題は、千里だけの話ではない。国土交通省の調査によれば、全国には「大規模」(300ヘクタール以上)で60カ所以上、小規模なものまで含めて2,000カ所以上の「ニュータウン」がリストアップされている。千里ニュータウンは「大規模で最初」のニュータウンだから、その体験は後続のニュータウンに示唆を与える力がある。僕はただ「住民という長期体験者」でしかないので、「見て歩く」実感を大切にしたかった。そうやって、僕の「ニュータウン訪ね歩きの旅」が始まった。大規模から、優先的に。面積が小さくても特色の強い町は見に行く。「ニュータウン」というのはたんに「新しい町」ではなく、一種の設計思想であり、イギリスのレッチワース田園都市にルーツがある。そういった海外の町も、行ってみる。これまでに国内170カ所以上、海外30カ所以上のニュータウン(的な町)を訪問した。
イギリスでは民間の社会改革活動であった「田園都市」から、戦災を受けて大量の住宅需要が発生し、その設計思想を引き継ぎ政府のプロジェクトとして「ニュータウン法」が1946年に制定された。したがってニュータウンは明快に規定されている。しかし日本では、「どこがニュータウンか」「何がニュータウンか」という法的な規定はない。高島平や筑波研究学園都市のように、「ニュータウン」と名乗っていなくてもニュータウン的な手法を色濃く適用して造られた町もあれば、小規模な民間開発住宅地を、ただニュータウンと銘打って売り出した町もある。明快な定義は難しいのだが、ニュータウンとは、「1.計画的に」「2.大規模に」「3.比較的短期間に」建設された町のワンセットであると僕は位置づけている。生活のワンパッケージがそこに入っているということだ。住宅だけでなく、道路・鉄道や水道・ガス・電気等のインフラ、商店、学校、病院もなくてはならない。ニュータウンを計画する時、職業別電話帳を持ってきて、「ここに載っているものはすべて必要だということだ!」と意気を上げたエピソードが伝わっている。途方もなく大きな話なのである。
■町自体がメディアの複合体である
千里ニュータウンは大阪府のプロジェクト組織である大阪府企業局によって計画・建設されたが、そこには満州の都市計画に関わってきた引揚者も参加していたという。これだけの大きな意志のカタマリを、半世紀たったからと言って「使い捨て」にするのは、おかしい。
ここでも示唆を与えてくれたのは、博物館で出会った闊達な「人生の先輩たち」だった。65歳以上高齢化率が30%を突破しても、それで突然町が滅びるわけではない。皆、自分の好きなことを、好きなようにやっていた。第一号の千里が明るくしていなければ、全国のニュータウンは希望を持てない。これからの高齢化は、地縁血縁のベースがない大都市部でとくに進行し、ボリュームも大きい。影響力が大きいのだ。そこで頑張る甲斐はあると思った。全国を訪ね歩くうち、各地のニュータウンに知り合いも増えていった。
博報堂退職後、関西大学総合情報学部で3年間「地域メディア論」の授業を持つ機会をいただいた。地域とメディアの関係を考える中で、しだいに「町自体がメディアの複合体ではないか」という考えを持つようになった。町は、多くの人に、共通の体験をもたらすものだからである。印刷・電波・ネットだけがメディアではない。その中で、「計画都市である」というきわだった特徴を持つ一群がニュータウンだということだ。
対象はあまりにも大きく、僕の旅は終わらない。町は終わることがない。どこかでまとまりがつくのだろうか。新聞研究所で出会った先輩や仲間たちの顔を胸に、地元千里と全国で、ニュータウンの価値を訴えている。
奥居武(ニュータウン研究者、一財・千里パブリックデザイン理事長)
※個人ブログ…https://ara-fuji.com/
千里ニュータウンは1962年9月に入居開始、東京の千代田区とほぼ同じ広さを持つ=大阪府吹田市、豊中市(2022年9月、奥居武撮影)