民放ドラマの撮影現場で、俳優の佐藤二朗氏から共演の女性俳優に対するハラスメントがあったと週刊文春が7月に報じた。同放送局の報告書によると、佐藤氏が女性俳優の楽屋を訪れ「俳優の仕事を続けるべきではない」などと発言したことが外部弁護士からハラスメントと評価された。また、「台本上明示されていなかった形で男性俳優が女性俳優の顔に触れる場面」があったとも明かされた。この騒動をめぐって、報道やSNSでは撮影中、特にアドリブの演技における体の接触について様々な議論があった。
「演技だから触れて当然」という考え方は、どこまで通用するのか。筆者は今年5月、全米映画俳優組合(SAG-AFTRA)の基準に準拠したインティマシー・コーディネーター(IC)養成トレーニングを修了した。ICとは、俳優同士の接触を伴うシーン等で、出演者の合意形成や安全確保を担う専門職だ。国際基準のルールに照らし、インティマシー・コーディネーションの観点から撮影現場での身体接触のあり方を考える。
♢アドリブだとしても—「演技だから」は同意の上に成り立つ
インティマシー・コーディネーションの根幹にあるのは、触れる場所や見せる場所をどこまで許容するかという「同意(consent)」の考え方だ。6日間の実践トレーニングでは、俳優同士が接触を伴う演技をする場合の同意について毎日あらゆる角度から徹底的に確認した。同意は非常に複雑だからだ。例えば、相手役が「腹になら触れても良い」と言ったとしても、くすぐるような触れ方は望まないかもしれない。あるいは、手のひらで触れるのは問題なくても、指先でなぞられることには抵抗がある場合もある。触れていい範囲だけではなく、触れる時間の長さや強さなどについても極めて詳細に確認する必要がある。
ICが使用する国際的な基準では「Yes Means Yes(明確なイエスのみが同意)」が大前提だ。俳優同士であっても「特段断られなかったので触れていいと思った」等の暗黙の了解はない。夫婦や恋人の役ならなおさら、親密さの演出に直接関わる接触について丁寧な確認が必要である。アドリブで接触の可能性があるなら、その可能性も含めて撮影前に同意を得る。伝統的な撮影現場では「素の反応が見たいから」と詳細なシナリオが俳優に知らされないケースもあった。しかし、不意打ちの演技は俳優のトラウマにつながるおそれがあるため、現代のICの基準では「安全ではない」手法とされている。そして、素の反応よりも、俳優の心身の安全を確保し、創造性を信頼することの方が優先される。
♢「イケメン相手なら良いのか」は筋違い—同意が有効なのは一度限り
SNS上の議論では「女性俳優は若手俳優とラブシーンを演じた経験があるのに、佐藤氏が触れるのはダメだとすればダブルスタンダードだ。相手がイケメンならいいのか」という趣旨の批判もあった。この意見は、ある演技に一度同意したら将来も有効だという前提に立つものと考えられる。ただ、国際的な基準では、同意は特定の相手・シナリオ・時点でのみ成立する。過去に許容したからといって、次も同様の演技をしなければならないわけではない。
相手役によっても同意の内容は変えて良い。わかりやすい例では、俳優一家に生まれた者が親やきょうだいとラブシーンを演じるのには抵抗があるだろう。より深刻な例でいえば、筆者がICの訓練を受けたアフリカの一部地域では、同性愛行為が法律で罰せられる国もある。この背景から、異性間のラブシーンなら演じられるが、同性愛を演じるのはNGとする俳優もいる。
同意は、個別具体的なケースごとに、映像公開後の反応まで見据えた上で、俳優本人が安全に演技できると判断した場合にのみ成立する。撮影・公開時の社会情勢によっても演技が俳優にもたらすリスクの度合いは変わる。だから、同意は過去の実績を問わず都度確認されなければならない。
♢「断る理由」は説明不要—トラウマも宗教的理由も同意とは別問題
特定の演技を断る場合、背景にトラウマがあっても相手役や監督に伝えなければならないわけではない。ICの訓練では、「文化的・宗教的な背景からこの演技は避けたい」というケースも目の当たりにした。しかし、たとえ宗教的理由だとしても伝える必要はない。断る理由は「俳優の心身の安全に関わるから」で十分だからだ。個人のトラウマやバックグラウンドを軽視するわけではない。「そもそも誰にでも同意できないラインがある」という原則のもと、俳優の選択が等しく最大限に尊重されるべきであるという考え方である。また、同意形成の過程で知り得た個人的な事情を、第三者が勝手に暴露してはならない。不用意なプライベートの開示もまた、俳優の心と体の安全を脅かす。
これら全ての基準は、演技を縛るためのものではない。俳優が安心して創作に集中できる環境を作り、作品の質をより高めるための方法論だ。国際的なプラットフォームで日本の作品も多数みられるようになり、撮影現場における人権も国際的な水準で考えられるべき時代に来た。良質な作品づくりの土台として、俳優の心身の安全が守られる現場の整備が求められる。
神谷美紀(元東海テレビ記者)