エッセイ コロナとジョギング

 今日もジョギングをした。距離はほぼ6㌔、いわば日課である。時間にして50分くらいのスロージョギングだ。以前は1回の距離が10㌔、あるいは15㌔だった。調子に乗ると、荻窪の自宅から新宿・都庁舎を回って戻ってきた。20㌔走である。しかし3年半前に、不注意から左大腿骨を骨折してしまった。それ以来、走力が大幅に落ちた。たまに10㌔を走ることがあっても、月1回がせいぜいである。

 西荻窪にある善福寺池の湧水が杉並区を横切り、中野辺りで神田川に合流する善福寺川という小さな川がある。その途中が緑地として公園になっている。僕が子どもの頃はその辺りは田んぼが広がっていた。高度成長が始まる前の1950年代半ばだったろうか、田んぼが大きな団地に変わった。その後団地の先の、川が左右に蛇行しているところが、緑地に整備された。僕のいつもの練習場は、その中にある片道4,5㌔のジョギングコースである。

 緑地は整備され始めてもう半世紀近くになる。樹々も相当太く、大きい。緑が一杯である。川の両岸には見ごたえのある桜並木もある。時折、カワセミが姿を現す。2,3年前から、あれはヒマラヤスギだろうか、大樹の上に大鷹が営巣している。休日になると、その姿を撮ろうという愛鳥家が大砲のような望遠レンズを付けたカメラの放列を敷く。そんな風景を眺めながら、僕は走る。

 新型コロナ・ウイルスの感染が拡大してから、ジョグする際に僕はマスク、いや、「覆面」と言ったほうが良いだろう、それで口、鼻を覆って走っている。この「覆面」は、実はラン友であるお茶の先生のお手製である。コロナ禍が始まったある日、郵便受けに少し厚めの封筒が届いていた。開けてみると、中からこの「覆面」が出てきた。「平常心是道」という禅語が書かれたハガキも一緒に入っていた。嬉しかった。

 この「覆面」は、高級ブランドのハンカチを三角形に折って、出来ている。鼻の上部と口の下部に当たるところにワイアーが入り、呼吸がしやすくなった、なかなかの優れものである。ジョグの前に、鏡を見ながらこのプレゼントを顔につけ、帽子をかぶる。目だけがギョロギョロする。まるで間の抜けたギャングの風情だ。

 ジョギングコースにマスクをしたランナーが急速に増えたのは、ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授が「走る場合もマスクの着用を」と呼び掛けてからだ、と思う。山中教授はフルマラソンを走るランナーでもある。どこかの政治家と違って、やはり信頼感のある有力者が発信すると、影響力がある。もちろんマスクをしてジョギングするのは、少々息苦しく、快適さに欠ける。しかしコロナに「かからない」「かからせない」である。コロナ禍が収束するまでは仕方がない。

 コースの走り方も、コロナで変わった。向こうから初老の夫婦が散歩で歩いてくれば、左側に大きく距離を取る。犬を連れた奥様達が立ち止まって、何人かでおしゃべりをしていれば、コースを外れ、木立の間をすり抜ける。要するに蛇行しながらのジョグである。時折、前方からマスクをしていないランナーが駆けてくると、立ち止まって後ろを向き、通り過ぎるのをただ待つ。「ソーシャル・ディスタンス」を保つのも、いつの間にか意識しない習慣になった。

 通信社に勤務していた僕は、60歳の定年、還暦を記念して、ハワイのホノルル・マラソンを走ることにした。ちょっとした思い付きである。東京マラソンが開催されるようになる数年前のことである。当時は、黙々と走るランニングは修行僧のように禁欲的で、ただ汗臭い男の「体育」というイメージが強かった。もちろん町中を走るランナーなど、あまり見かけない頃だった。

 ところがホノルル・マラソンを走って、そんなイメージは僕の中でいっぺんに変わった。まだ真っ暗な午前5時。号砲とともに夜空にたくさんの花火が打ち上げられる中で、ホノルル・マラソンはスタートする。出走者は数万人。そのうち7割前後が日本人で、しかも若い女性が圧倒的だ。彼女たちは日頃、走っているだけに皆スタイルが良く、ランニング・ウエアもお洒落である。皆、ウキウキしながら走っていた。

 スタートして1時間くらい走ると、コースはダイヤモンドヘッドの山裾にさしかかる。眼下に広がる大海原から、大きく、真っ赤な太陽が昇ってくる。その中に吸い込まれそうな気持になる。そんな景色を眺めながら、僕はマラソンがこんなにも明るく、軽やかで開放的、しかも爽やかなスポーツであることを初めて知った。善福寺川の緑地が僕の日々のジョギングコースになったのは、それ以来である。

 ホノルル・マラソンの素晴らしさに味を占めた僕は、その後、5年ごとに「海外遠征」をした。65歳でニューヨーク・マラソン、70歳でボストン・マラソンである。超高層ビルが立ち並ぶマンハッタンのコース周辺の大群衆、ハーレムから眺めたエンパイアステートビル、青空の下の黄葉した街路樹、熱狂的な応援。完走後ホテルに戻る僕に、通りすがりのニューヨーカーが掛けてくれた「コングラチュレーション」の一言。忘れようがない。

 もう100年以上前から開催されているボストン・マラソンにしても、思い出が一杯だ。前日は雲一つない晴天だったのに、当日は凍えるような氷雨。その中でも、沿道で傘もささずに応援してくれた人々。ひたすら駆け上った「心臓破りの丘」。寒さの中、写真を撮るために長い間待ち、「ドヒサ~ン、あと2マイル。頑張れ!」と大声を掛けてくれたツアーガイド。ゴールした僕は唇が紫色になっていたのだろう、冷え切った体をそっと抱きかかえてくれた長身の大会スタッフ。まるで昨日のことのように思い出す。

 昨年秋、75歳を迎えた僕は、本来ならまた海外に走りに出かけるつもりだった。でも骨折から3年半たっても、フルマラソンを走る走力は戻っていない。いや、仮に戻っていたとしても、今年はコロナ騒ぎである。東京マラソンが中止になったように、有力な海外マラソンもすべて取り止めになった。となると、僕にはもうフルマラソンは無理だろう。この2月にようやくハーフマラソンを完走できた。それであきらめよう。そう思いながらも、実は心のどこかで、フルマラソンへの復帰を狙っている。

 そんな生活を送っていると、「どうして走るのですか」と良く聞かれる。一番苦手な質問である。簡単には答えられない。答えたとしても、納得してもらえるとも思えない。しばらく黙っていると、「やはり、健康のためですか」と二の矢が飛んでくる。そうか、それが相手の求めている答えなのか。しかし、そのため、ではない。でも「違う」と真正面から言ってしまうと、会話に角が立つ。仕方ないので、答える代わりに僕はちょっとほほ笑むことにしている。

 『ボーン・トゥー・ラン』という本がある。「走るために生まれた」だ。10年くらい前に出版され、米国で数百万部という大ベストセラーになった。メキシコ奥地に住む、長い距離を走ることを得意とする先住民族を描いた大部のルポルタージュである。その中に、いつまでも、どこまでも走り続けていられるのは、地球上で人間だけだ、と書かれている。その能力によって、狩猟時代から獲物を追い詰め、生命を維持してきた。人間のDNAの中には、長い距離を走る本能が組み込まれている。そんな仮説を著者は立てている。

 その仮説が正しいのかどうか、僕には分からない。でも走ること、走った後の爽快感、達成感はたまらない。誰かに頼まれたわけでもなく、目的もなく、僕はただ走る。ランニングは高齢者の身体にはあまり良くない、という説も聞くのに、ただただ走る。やはり、僕のDNAには走る本能が組み込まれているのかもしれない。

 コロナの日々、巣ごもり生活が続く中で「不要不急」はいつの間にか日陰者扱いされるようになってしまった。「不要不急」のことで外出するのは、何となくはばかられる。もちろん、ジョギングはコロナ禍でも「社会的」には許されてはいる。でもそれは、健康のためという目的があってのことだ。僕のように、大した目的もなく走るのはどうなのだろう。楽しいから、というのは認められるのか。厳格な判定者には、「不要不急」の烙印を押されてしまいそうである。

 でも、考えてみると「不要不急」を抜きにして、日常があるとは思えない。日常があってこその人生である。誰が言ったか忘れてしまったが、こんな言葉があった。「人生、生きている間の暇つぶし」。「暇つぶし」とは日常のことではないか。日めくりのような、日々の暮らしの大切さを表した言葉のように思う。

 コロナ禍は少し下火になってきた。しかし、いつ収束するのか、誰にも分からない。2波、3波が来るのかもしれない。でも僕のジョギングはこれからも続く。覆面をし、蛇行しながら、ただ「暇つぶし」のために、である。

世界史を生きる日々なり蜃気楼  土肥 一忠(元時事通信記者)

Authors

*

Top