■子供の病気と侮ってはならない
「麻疹」と書いて「はしか」と読む。そのむかし、中国の麻疹という疾病が日本ではしかと呼ばれていたことから、はしかに麻疹の漢字を当てるようになったという。麻疹をそのまま「ましん」と音読みすることも多い。それではどうして麻疹なのか。麻の実のような細かい発疹が顔や胸、腹、腕、脚…と体中に出るからだ。麻疹の病原体はウイルスで、人類は大昔からこの麻疹ウイルスに悩まされてきた。日本では奈良時代に麻疹とみられる疫病が文献に登場する。
感染者のせきやくしゃみによって飛んだ飛沫に含まれる麻疹ウイルスに感染すると、10日前後の潜伏期間を経て鼻水や咳などかぜのような症状が続いた後、高熱を出して全身に赤い小さな発疹がいくつも出る。肺炎や中耳炎を起こす。1000人中1人の割合で脳炎にもかかり、このうち15%が死亡し、25%が脳性まひなどの脳障害を患う。特効薬はなく、対症療法しかない。予防は麻疹ワクチンの接種でできる。
大人になってから感染すると、症状が重い。子供の病気と思われがちだが、侮ってはならない感染症である。せきやくしゃみによる飛沫感染だけでなく、空気中を漂う麻疹ウイルスを吸い込む飛沫核感染(空気感染)もある。感染力が非常に強く、インフルエンザウイルスの10倍以上だ。
■「輸出国」から「排除状態」に
この侮れない麻疹に感染する人が増えている。国立感染症研究所(健康危機管理研究機構)によると、今年1月1日から4月12日までの3カ月半に計299人(速報値)の患者が報告された。これは昨年1年間に報告された患者数(265人)を軽く上回る数字だ。さらに患者は増え続け、19日までに計362人(速報値)を記録した。4月には東京都新宿区の小学校で集団感染が起き、学年閉鎖が実施された。今後、大流行となる危険性がある。
32年前の1994年、すべての予防接種が「義務」から任意の「勧奨」に切り替わった。小学校での集団接種がなくなり、保護者が子供を病院に連れて行ってワクチンを接種するようになった。その結果、麻疹ワクチンを接種していない子供が増え、2008年には10代から20代に麻疹の感染が広がり、1万人を超える患者が報告され、世界から「日本は麻疹の輸出国」と非難された。
この感染拡大を食い止めようと、厚生労働省は1歳のときと小学校入学前の計2回、麻疹ワクチンの接種を呼びかけた。さらに高校3年生と中学1年生を対象に接種費用を公費でまかなう定期接種も始めた。こうしたワクチン接種の奨励が功を奏し、2015年には患者が過去最少の35人にまで激減し、WHO(世界保健機関)から土着の麻疹ウイルスが存在しない、「根絶」よりワンランク下の「排除状態」に認定された。
しかし、その後、世界的な麻疹の流行が起こり、日本にも海外から麻疹ウイルスが入り込み、患者の数が増え、新型コロナの流行時は一時減ったものの、新型コロナ対策が緩和され、インバウンド(外国人の旅行者)が急増すると、増加に転じた。
■日本は超が付くほどの清潔好きだ
話は変わるが、「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年、出演者・吉岡秀隆、小雪)という映画があった。昭和のノスタルジアをかきたてられ、続編とともに大ヒットした。映画の舞台は1958(昭和33)年から翌年にかけての東京だ。高さ333メートルの東京タワーが完成し、東京オリンピックの開催が決まったころの話である。
あのころ、日本は長いトンネルから頭を出した蒸気機関車のように、終戦後の食うや食わずの貧しさから抜け出し、高度経済成長期へと突入していく。まだどこの家でも井戸水を使い、トイレも汲み取り式だった。道路は雨が降れば水たまりができ、晴れると、土埃が舞い上がった。とても快適とは言えなかった。食あたりもしたし、子供のお腹には寄生虫がいた。コレラや赤痢などの感染症も流行った。だが、自然と抵抗力が付いた。やっかいなアトピーもなかった。
一方、いまの日本は昭和の時代に比べ、超が付くほどの清潔好きである。スーパーやドラッグストアは、口臭予防のうがい薬、体臭を消す制汗剤、トイレの消臭スプレーが並び、どの商品にも除菌、殺菌、抗菌の2文字が入る。清潔志向に対する神経の使い方はものすごく、その分、反作用も強力だ。コロナ禍の中で生まれた偏見、差別、不安、恐怖、誹謗中傷、風評被害を思い出してみればよく分かるだろう。
■自然感染がないと免疫は維持し難い
昭和のノスタルジアをかきたてられる映画を取り上げ、「清潔とは言えないなか、かえって抵抗力が付いた」と指摘したが、感染症がある程度、存在しないと、免疫(抵抗力)は維持し難い。矛盾するように見えるが、清潔で衛生的な社会になればなるほど、感染症に対する免疫が落ち、その感染症を流行させることがある。
麻疹がそれである。麻疹の排除状態の日本に海外から麻疹ウイルスが持ち込まれ、新たな感染者を発生させ、患者数を急増させている。そこにはワクチン接種によって麻疹ウイルスが激減した結果、自然感染が少なくなり、免疫が強化され難くなるという問題が潜んでいる。つまり、日常の生活で麻疹ウイルスに接する機会を失うと、ワクチンで得た免疫が保たれないのだ。推奨されている2回接種は、免疫の強化につながる。今回の流行での患者の多くは、接種が1回で十分な免疫が付いていなかった。
ところで、人にだけ感染するなど麻疹と性質が似ている天然痘(痘瘡、疱瘡)は、ワクチンによって根絶できた。人類は天然痘を地球上から壊滅させることに成功し、1980年5月、WHOは天然痘根絶を宣言した。しかし、麻疹は天然痘のようには根絶できない。それは何故か。天然痘が古代から恐れられてきたために比較的ワクチンが受け入れられやすかったのに比べ、麻疹は子供の通過儀礼的な病気とみなされ、一度感染すれば一生感染しないという終生免疫が獲得できるという見方もあり、ワクチン対応が遅れた。
ここであらためて考えてみると、感染症をすべて根絶することはできない。重要なことは、どうやって感染症と付き合っていくかだ。病原体が国内から姿を消しても、国外からその病原体が入ってくると、たちまち感染が広がる。そこをワクチンの2回接種などで免疫を高めていく。これが感染症のコントロール(制御)である。
木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)