いくつもの事実というピースを集めて到達する真実という絵が、たった一つということなどありはしない。 また、ある人間または組織(国家)にとっての正義が普遍的でないことぐらいは、いまさら説明の必要もないことだろう。一つの正義に対してはまた別の正義がある、ということだ。 悪と思われた事柄を角度を変えて見ることで、果たしてそうであったのか、という疑問を抱くことも稀なことではない。 真偽や善悪、正邪といったものは絶対的なものではないし、ましてや世の中の人や事象がそれらの両極の一端にきちっと収まっているわけではない。いうなれば、白から黒のグラデーションのどこかのグレーに位置している方が、じつは、当たり前なのだ。 潔癖ともいえる二元論的思考を支えるのは、単純化と分かりやすさといえるだろう。それがベースとなり、時として異端や異形といったものに対する恐怖心や非正統的なものに対する嫌悪として排除の論理が創発される。そして、同調圧力による集団化と相俟って先鋭化していく。複雑で込み入ったものは、たとえそれが巨悪であれファナティックな集団的排除の対象にはなりにくいといえるだろう。 そういった、時代(と大衆)の気分に対するアンチテーゼとして生まれたのが、15年ぶりに森達也監督が撮った映画「FAKE」だ。 まだ、人びとの記憶に新しい2014年、大きな話題となった「ゴーストライター騒動」の当事者であった佐村河内守氏のその後を記録したドキュメンタリー作品だが、佐村河内氏本人に1年半ほど密着した様子が映し出されていく。ほとんどが、自宅マンション内ででの映像であるが、外出先への同行も含め夫人や飼い猫、佐村河内氏を訪ねる人たちも登場する。 そこで、まず気づくのだ。私たちはどれだけ佐村河内氏の人となりを知っていたのか、と。週刊文春によるスクープ記事やテレビのワイドショー、またはそれに先行するドキュメンタリー番組。じつは、それだけの情報ソースから構築された〈佐村河内像〉を疑うことはなかったのだ。 話し方やちょっとした仕草、夫婦間でのやりとりなど、稀代のペテン師と指弾された人物の日常に垣間見る新たな情報から、私たちはもう一人の佐村河内氏に対峙していくことになる。
フジテレビの二番組から出演の依頼を受けるシーンがある。報道とバラエティ。まじめに取り上げるのでぜひとも出演して欲しいと懇願するフジのスタッフ。主義主張があるわけではない。視聴率が目的だ。それを批判するのは簡単だが、そこにいるのはもう一人の自分なのだ。 またこんなシーンもある。アメリカのジャーナリストが取材に訪れ、佐村河内氏に厳しい質問を浴びせる。 ??この18年間でなぜ楽譜を覚えようとしなかったのか? 「覚えませんでした」 ーーあなたは指示書を書くことが作曲だと思っているのか? 「この何十倍もの密度で指示書を書きます」 ーー音源を弾いているところを聴かないと証拠にならない。この指示書を音楽に変える方法がわからない。弾くところを見せてもらえますか。そしたら一目瞭然です。 「もう長いこと鍵盤に触っていない。(香夫人)いつだっけ(キーボードを)捨てたの? 家にはないです」 ーーなんでないの? 捨てる必要ないじゃない。 「部屋が狭いから。すごく狭くて」 映画の冒頭、森監督自身が佐村河内氏本人にこう断っている。 「僕はあなたの名誉を回復する気は さらさらない」と。 ドキュメンタリー映画といっても、フレームの外側は存在し、カットとカットの間は時間が経過している。もちろん、編集は意図的にされている。何が真実で何が嘘なのか。真偽と正邪のグラデーションは一人ひとりが判断するのが本当の意味でのメディアリテラシーというものだろう。 「FAKE」という作品自体、監督が仕掛けた壮大な〈フェイク〉なのかもしれないのだから。
佐久間 憲一(牧野出版社長)