村山富市元首相死去のニュースは、自民党の総裁選に重なったが多くの新聞、テレビは政局記事を押しのける勢いだった。村山連立政権は、社会党が反自民を表看板にしてきた当の相手であり、そこから分かれた新党・さきがけによる「自・社・さ」連立政権だった。村山氏は社会党初代の委員長、片山哲首相(1947年6月)に次ぐ、同党2人目の首相だが、片山政権は社会党が第一党だった。
村山政権は長く対立していた自民に担がれて、首相になったのも異例なら、憲法、自衛隊、原発などを大胆な現実路線に切り替えたのも異例だ。自衛隊は「合憲」、日米安保条約は「堅持」、日の丸・君が代は「尊重」としてそれまでの基本政策を大きく変えた。また消費税の3%から5%への引き上げも認めている。
村山氏は当時、「閣僚経験がなく首相官邸にもめったに行ったことがない。総理大臣になることなんか考えたこともなかった」と言っている。
それがある時、「あれよあれよという間に自社の首相候補になり、国会で指名されると秘書官やSPに取り囲まれて、首相官邸の執務室に連れて行かれた。これが首相の椅子かと座ると、腹を決めてやらざるを得ない。歴史的な役割があるとすれば、自民党にできなかったこと、戦後50年の節目にけじめをつけることではないか。少しでもよこしまな気持ちや欲が出たら失敗すると、自分に言い聞かせた」と、「私の履歴書」では語っている。
1989年に東西冷戦が終わると、自社の55年体制をはじめ内外情勢も大きく変革を始めた。政界でも左右の対立がなくなり、どのような組み合わせができてもおかしくない状況になっていた。だが長年党の政策の基本柱だった憲法、自衛隊、原発容認など現実路線はいかにも唐突だった。熱心な支持者は離れて行き、新たな支持者は獲得できない状況だった。社会党は大事なことほど徹底的に議論すべしと、国会論戦などでやかましく叫んできたことを自ら反故にした。本来ならじっくり党内で議論すべき案件だが、次の年は戦後50年目なので時間の余裕がないとも言われた。
いずれも社会党の心の御柱のような重要政策で、それぞれ党の歴史や先輩たちの思いが込められている。55年体制崩壊後、政界は何が起きてもおかしくないという空気になっていたとはいえ、ほとんど議論がなかったから「野合ではないか」、「自民党の復帰に手を貸した」などといわれ、連立離脱論も広がった。これを恐れた自民党は「村山談話」では譲る形になる。
ただし後の話になるが、自民党内では、細川護熙政権のころから、密かに政権奪還の方針を立てていた。それは社会党の委員長を担いで政権を奪還するという大胆構想だ。村山氏がだめな場合は、土井たか子衆院議長を担ぐ案で、自民党の幹部が村山、土井両氏周辺と何回か接触したといわれる。
村山談話は、「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」「あらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」というものである。
この談話は、小泉純一郎首相以後の政権に踏襲され、アジア外交の原点ともいわれる。また村山氏は首相外遊の定番だったワシントン訪問からではなく、先ず韓国からスタートし、フィリピン、ベトナム、マレーシア、シンガポールなどをめぐっている。
「村山談話」は30年経った今日の評判はどうか。17日夜のテレビ朝日の「報道ステーション」は10分間の特集で、視点を含め見応えがあった。とくに「戦後50年村山談話」の解説は懇切だった。
18日朝刊の中で東京新聞は、「高市氏、首相選出の公算」を押しのけ「村山死去」が1面トップだった。他紙も解説・雑報、評伝、社説などで村山氏を偲んでいる。
村山氏の顕彰は大事だとしても忘れてはいけないのは、議論なしに手のひら返しのような現実路線への転換であろう。社会党は、一方的に接触を求められているが、例えば社会党側から自民党のハト派などと連動することも考えられたのではないか。これがなかったために社会党支持者の多くが失望し、急激に衰退していく。とくに消費税の3%から5%への引き上げで、村山政権はその後、選挙に惨敗。社会党から「社民党」に党名を変えて再生を期したが、東京三宅坂の社会党本部の若い党員や地方の党員に離れる人が続出した。党勢も先細りになり職場もなくなり、苦しむ姿を筆者は何人も目にしている。村山内閣の重要ポストに関係した人物が、省傘下の事業団に職を紹介され、天下りに反対していた手前、受けるわけにはいかないと断り、浪人生活を続けた人もいる。
「村山富市氏死去」の報道を見ていると「戦後50年談話」に光が当たっている感じがした。議会政治の監視役でもあった社会党の衰退を見ていると、村山政治の功の面だけでなく、「罪」の部分にも触れてよかったと思われた。
いまや政治は多党化の中で、幅広い合意形成が不可欠とされる。村山政権の経験から教訓を汲み取るとすれば、高市早苗新政権にもコンセンサスを重視した熟議の政治運営を期待したい。
栗原猛(元共同通信政治部)