<ジャーナリストをめざす若い人へ>
映画 スポットライト 世紀のスクープ

 今年のアカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞したアメリカ映画「スポットライト 世紀のスクープ」は”ジャーナリスト映画”でもある。メッセージ@penでは、主としてジャーナリストをめざす若い人向けに、これから一年をめどに毎月一本程度リポートを掲載して行きたいと思う。今回は、今月4月公開予定の「スポットライト 世紀のスクープ」の試写会場からお伝えする。

 物語は、2001年7月アメリカ東部の町ボストンの地元紙、ボストン・グローブの編集局長室から始まる。編集局長マーティ・バロンが、話し始めた。「インターネットに負けない読み応えのある記事が欲しい」。アメリカでは既に新聞をインターネットが脅かしつつあった。バロンは、ユダヤ系、新任としてマイアミからやって来たばかり。その日が初めての編集会議だった。だがバロンの提案は、更に具体的だった。
「ボストンのカトリック教会で神父による子どもへのいたずらが絶えない。しかも、教会が組織ぐるみで隠蔽している。特集記事として特に教会の関与を暴いて欲しい」というものだった。
 ボストンはアメリカ大リーグ野球の有力チーム「ボストン・レッドソックス」の本拠地として日本では有名だが、実は、地域に長く根ざしたカトリック教会が強大な権力機構として存在する町でもあった。そしてボストン・グローブ紙の定期購読者の53%がカトリック教徒だったから特集コーナー「スポットライト」担当チームは驚いた。古参の編集幹部から強い反対意見が出た。
 だが、取材に取り掛かると、いたずらを受け成人した1人の被害者が重い口を開く。ボストンには性的虐待を繰り返す神父が13人はいて、精神障害や自殺に追い込まれた子供もいる。しかも、貧しい家庭の子供ほど神父を信じ毒牙にかかってしまうという生々しい証言だった。ここから「スポットライト」チームの記者3人とデスク合わせて4人の取材が本格化し、カトリック教会の執拗な取材妨害を粘り強く跳ね返して行く。そして、半年後の2002年1月、ボストン・グローブ紙はカトリック教会の神父数十人が子供への性的虐待を繰り返し、その被害者は1000人を超えること、しかも、教会が神父を組織的に庇っていた事をスクープした。特ダネを伝えるボストン・グローブ紙を満載したトラック群が深夜の町へと次々に出て行くシーンは”新聞全盛時代”を彷彿させて圧巻である。記事の反響は世界各地のカトリック教会に広がり、バチカンも動かした。
 さて、これが物語の大筋だが、映画はジャーナリズムとは何かという古くて新しい問題を問いかけている。
 スクープを生んだボストン・グローブ紙の編集局は極めて”レトロ”な空間だ。記者たちの机の上には雑然と資料が積み上がっている。しかし、パソコンなどのデジタル機器は少ない。黒い電話が懐かしい音を響かせ、記者たちが手に持って走る子機も時代がかっている。そして、被害者の悲痛な声に突き動かされるように、昼夜にわたり懸命に情報を追う記者たちに生活の臭いがしない。家庭をめぐる会話がちらっと彼らの間で交わされるのだが……。また、彼らの取材方法は教会側弁護士への”夜討ち”など、どこか泥臭い。
 スクープをリードしたマーティ・バロン編集局長。マイアミからやって来たばかりでボストン・グローブ紙のこれまでにしがらみを感じない。ユダヤ系という事もあってカトリック教会への恐れも余り無かったのかもしれない。更に、バロンは「インターネットに負けない読み応えのある記事を」と指示を出し、最新テクノロジーの時代が来てもジャーナリズムにとって何が重要なのかを示した。
 実話にもとづくこの映画の監督・脚本は、2014年、日本でもヒットした「靴職人と魔法のミシン」を制作したトム・マッカーシー。彼のところに一本のメールが入った。「スポットライトが描いたジャーナリズムは、私達がアメリカ人として生きてゆく社会に必要不可欠のものです」というもので、実は、本物のマーティ・バロンからだった。「出版・報道の自由は権力を制止できる」とマッカーシーは語る。
 ジャーナリズムについては多くの評論がある。しかし、映画は、実例として、権力と戦う記者魂や、弱いものの味方として昼夜の区別なく続く記者達の泥臭い取材を提示する。そして、こうした一つ一つの行動が、不退転の決意を持つリーダーに恵まれて「読み応えのある記事」として、やっと結実する。一つが欠けてもスクープはなかったかもしれない。
 ジャーナリズムは生活に不可欠なもの。出版・報道の自由を自らしっかり守り権力を制止できる若いジャーナリストが多く誕生する事を願う
陸井 叡(叡Office )

※本物のマーティ・バロン編集局長のメール、及びマッカーシー監督の発言の内容はいずれも映画会社制作の資料によっている。

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