<シネマ・エッセー> 海難 1890

< ♬ ここは 串本 向かいは大島 ♬ >で有名な串本節は、大阪毎日新聞記者だった 矢倉広治さんが和歌山県南部の民謡に作詞し、昭和初期に全国的に流行させた。この映画が制作される発端はその串本町(旧大島村樫野)の寺で手紙が見つかったことだった。

1890(明治23)年9月、オスマン・トルコの軍艦「エルトォールル号」は日本訪問の帰途、台風のため和歌山県大島沖で沈没。乗員600人以上が嵐の海に投げ出され、69人が島民に救助された。この時、地元の村医者がけが人たちの手当をし、トルコ側からその医療費を請求するよう求める手紙が送られて来たが、日本側からは「苦しんでいる人を助けただけ」と断わりの返事をしていた。そのいきさつが書かれた手紙に感銘を受けた田中光敏監督が映画化を企画し、日本とトルコの合作映画が誕生した。

映画の前半は「エルトォールル号」の遭難・救出劇にあてられ、後半は95年後のイラン・イラク戦争勃発により、テヘランで起きた邦人救出劇で、今度はトルコ政府が救援機を派遣して日本人家族ら215人を救う話である。

「エルトォールル号」は木造・3本マストの帆船に石炭エンジンを搭載した
軍艦で、3年前、小松宮親王夫妻がトルコのイスタンブールを訪問した答礼に日本へ派遣された。一行が皇居で明治天皇に謁見し、スルタン(国王)からの親書を奉呈し、帰国の途についた直後に遭難事故が起きる。

座礁現場の串本で行われたという撮影は迫力があり、特に医者(内野聖陽)と村人たちが嵐をついて生存者を岩礁から救出し、けが人をけんめいに手当するシーンには胸を打たれる。

事故後、現地に亡くなった軍人たちを祀った記念碑が建てられ、トルコではこの救出劇が学校の教科書にも取り上げられている。日露戦争では、ロシア帝国から常に脅威を受け続けていたトルコが、ロシアを打ち破った日本に大きな感銘を受け、トルコ人の親日感はさらに高まったという。

海難事故から95年が過ぎた1985(昭和60)年に起きたイラン・イラク戦争で、イラクのサダム・フセイン大統領が48時間後にイラン上空を飛行するすべての飛行機を無差別攻撃すると宣言。イランの首都、テヘランにいた日本人家族は大使館員らと共に空港から一斉に脱出を図ろうとする。駐イラン大使(永島敏行)が日本の外務省に救援機の派遣を求めるが、当時はまだ日本との就航便がなく、特別機の派遣も間に合わない。

ギリギリの時点で、空港に取り残されそうになった日本人を救ったのが、要請を受けたトルコのオザル首相だった。彼の決断で、日本人のための救援機が追加派遣され、215人はギリギリの時間内に無事空港を脱出することが出来た。

2国間の歴史が時をへて新しい友情の輪を生む。今年は日本とトルコの友好125周年に当たり、12月5日から東映系で公開されるこの映画は、「外交」の重要さをあらためて教えてくれるのではないだろうか。
磯貝 喜兵衛(元毎日映画社社長)

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