<シネマ・エッセー> 沖縄 うりずんの雨

監督のジャン・ユンカーマンは1952年アメリカ・ミルウォーキー生まれだが、17歳のときに慶應義塾志木高校に留学したのち、スタンフォード大学卒業という経歴の持ち主で、『劫火・ヒロシマからの旅』(1986)や『映画 日本国憲法』(2005年)など、日本を題材にした記録映画作品が多い。

戦争、占領、基地という沖縄の苦難の歴史を、4年の歳月をかけて2時間半の長編ドキュメンタリー映画にまとめ、この夏全国公開する。題名の「うりずんの雨」は冬が終わって大地が潤う3月から入梅の5月にかけての雨のことで、この時期に悲惨な沖縄地上戦があったことから映画のタイトルになったという。

琉球王朝の時代から、平和な地として知られる沖縄全島が戦火に包まれた悲劇は、これまでも『ひめゆりの塔』(1953年、今井正監督)など数多く作られてきたが、アメリカ人の映画作家が戦後70年の今、沖縄の苦難の歴史と取り組んだ意義は大きい。試写会を終わったあとの挨拶で、「この映画の背後に何があるか。沖縄の現実を見直してほしい」と語っていたのも印象に残った。

学徒隊として戦闘を体験した大田昌秀・元沖縄県知事をはじめ、壕内での集団自決から生き残った知花カマドさん、女子学徒隊員で捕虜になった稲福マサさんはじめ、戦闘に参加した日米軍人らがインタビューに答えて実体験を語り、米国立公文館の実写フィルムと合わせて、沖縄戦の悲惨さを再現した。

1945年夏から1972年までの「占領期」には、米軍兵士による婦女暴行事件が基地の街で頻発するが、沖縄施政権返還後の1995年に金武町で起きた米兵3人による女子小学生暴行事件は大きな波紋を呼んだ。この映画の圧巻はその事件で暴行に加わり、懲役刑を終えた元アメリカ海兵隊員(事件当時21歳)がインタビューに応じているシーンだ。「ボクは地獄に落ちても許されないだろうが、あの夜そこにいたことで、すべてが起きたんだ。一巻の終わりだった」と語る。

映画の試写を見終わって、思い出したことがある。1964年の東京オリンピック直後に私がいた新聞社が戦後初の純国産民間機(MU2)を購入。占領下の沖縄訪問飛行を企画し、その取材準備をしたことがある。結果はアメリカ側の「ノー」で実現しなかった。「聖火リレー通過のとき一度だけ例外を認めたが、日の丸の付いた飛行機は沖縄に一切入れない。」という回答だった。

時代は変わり沖縄に「日の丸」は戻ったが、日米安保条約による在日米軍基地の75%が沖縄に集中している現実は、今も変わっていない。(映画『沖縄 うりずんの雨』は6月20日から東京・岩波ホールなどで順次公開)
磯貝 喜兵衛(元毎日映画社社長) 

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