ボストン・マラソンリポート ~心臓破りの丘を走りたい~

DSC018605月。緑が輝いています。あちこちで白や黄の木香薔薇が咲いています。本当に美しい季節ですね。皆さん、お変わりありませんか。僕は4月20日、ボストンマラソンを走ってきました。つくば、東京に続いて今シーズン3回目のマラソンレポートです。

約10年前にフルマラソンを始めた僕は、海外で走るのは3回目です。60歳でホノルル、65歳でニューヨークを走りました。70歳でボストンを走ろう。そう決めたのは2年くらい前です。何しろボストンマラソンは今年が119回、世界最古という伝統のあるレースです。有名な「心臓破りの丘」を走りたい。そんな気持ちもどこかにありました。

戦後間もなく、日本がまだ貧しかったころ、山田敬蔵選手がボストンマラソンで優勝しました。彼を主人公にした映画「心臓破りの丘」が制作されました。そのころ小学生だった僕は木造だった小学校の講堂で見ました。内容はすっかり忘れてしまいましたが、山田選手優勝のニュースに大人たちも興奮していたことをわずかながら記憶しています。

さて当日、天気予報は雨です。せっかくアメリカまで来て、70歳の記念だというのに、です。好天の中、美しい風景を見ながら走ろうと思っていた僕は悔しくてたまりません。が、いつまでも悔しがっていても仕方がありません。よし、雨の中を思いっきり走るぞ。覚悟を決めました。そのためには防寒対策です。ボストンは札幌の少し南くらいの緯度です。しかも今年は2月後半に大雪が降って、春の訪れが10日から2週間遅れているそうです。予想最高気温が7℃。体感気温は5℃以下でしょう。

基本的には東京マラソンの日と同じような格好をしました。それに長袖のスエットシャツをもう一枚。お腹の上には使い捨てのカイロを貼りました。一番上にはビニールの簡易レインコート。頭には買ったばかりの朱色のアディダスのキャップ。ボストンマラソンのシンボルマーク、ユニコーン(一角獣)が額部分に付いています。ゼッケンをつけたTシャツは息子たちがプレゼントしてくれた蛍光イエローのイタリア・ディアドラです。それにボストン用に新調した真っ赤なアシックスのシューズを履きました。

スタート地点はボストン市街からはるか離れた州立公園のあるホプキントンです。「ここからすべてが始まる」。道路に青いペンキで塗られたスタートラインのそばにはこんな看板が立っています。高度は約120m。コースはそこからほぼ一直線、折り返しはありません。海に近いボストンまで下っていきます。が、足が動かなくなる25キロ先から「心臓破りの丘」が控えるほか、コース全体にアップダウンが続きます。海に近いだけに風も強い。難コースです。しかも天候は雨。

ボストンマラソンを走るランナーは約3万人。速いランナー順に4つのグループに分かれてスタートします。一番最後のグループの僕は、ランナーが待機する高校のグラウンドで1時間半以上待たなければなりません。寒い、寒い。そこで皆、ランニングウエアの上に防寒着を着ています。僕は自宅から持参した毛糸のジャケット、ゴルフ用のベスト、虫に食われた家人のセーターを着て、さらにトレーナーを肩にかけました。これらはスタート前に脱ぎ捨てます。そうした衣服はボランティアが集め、まだ使えるものは寄付される。面白いシステムです。

バーン 銃声がなった
11時15分。一番遅い僕らのグループのスタート時間が迫りました。初めてボストンを走るというアメリカの大学生らしき若者たちと盛り上がります。バーン。銃声が聞こえました。さあ、スタートです。僕はボランティアや警備の警官に手を振りながら、真青なスタートラインを越え、走り始めました。雨はスタート前から降り始めています。でも、もう気にしません。よしっ、行くぞ!

スタートからすぐ、かなりの下り坂です。ここで飛ばしてしまうと、後が続かなくなります。僕は走るにあたって2つのことを決めていました。一つは1キロ7分のペースを守る。もう一つは歩かない、です。周りのランナーに引っ張られてはいけません。落ち着いて、落ち着いて。ラップは1キロが6分42秒、2キロが7分4秒です。下りなのにスピードを抑えられました。順調に予定したペースに乗れました。

3,4キロ行ったときです。隣のランナーにぶつかりそうになりました。「ごめんなさい」と言いかけて、すぐ言い直しました。「ソーリー」。ここはアメリカです。と、今度は掛け声をかけて走っている男女4,5人のグループに並びました。「エイ、ホッ、エイ、ホッ」。明らかに日本語に聞こえます。「ホエア・フロム?」。聞いてみると韓国・ソウルでした。「僕は東京だ」。そう言ってお互い手を振って別れました。それにしてもあの掛け声は、走るのにとても良いリズムでした。

間もなく10キロ。コース横を走る鉄道のフラミンガム駅が見えてきました。これを越えたところでマラソンツアー・ガイドのMさんが、写真を撮るために待っていてくれることになっていました。前方を見ながら走っていくと、目印のグリーンのジャンパーが見えました、見えました。「Mさ~ん」。僕は両手を大きく振りながら、大きな声を出して走っていきました。Mさんもすぐ気が付いてくれました。並んで走りながらシャッターを押してくれます。有難いことです。「涙が出るな」。駅前を走り過ぎていくとき、Mさんのそんな言葉が耳に届きました。

おしゃべりラン
ペースは順調。ぴったりキロ7分で走れています。と、ツアーで一緒になった若い女性ランナー、Nさんが追いついてきました。彼女はワールド・マラソン・メジャーズ(WMM)と呼ばれる世界6大マラソンの制覇を目指しています。WMMとはニューヨーク、ボストン、シカゴ、ロンドン、ベルリン、それに一昨年から仲間入りした東京です。Nさんはこの日でもう4つ目、後はシカゴとベルリンと言っていました。でも国内レースで走ったのは「東京」だけとか。これまでの最高タイムを聞くと、5時間少々と脚力は僕とほぼ同じです。「よし、おしゃべりしながら5時間を目指そう」。そう言って並んで走ることにしました。

マラソンを走っているとき、ランナーは実に孤独です。走る以外やることがないのですから、退屈です。その退屈感を紛らわそうと、僕は時々、歌いながら走ります。よく口ずさむのは小林旭の「北へ」。〽名もなき港に~、という、例のあれです。あの歌詞の哀感が好きです。でも歌うよりおしゃべりが良い、というのを、僕が参加しているジョギング・クラブ、IJCのリーダーに教えてもらいました。実際、IJCでは時々30キロ前後の長い距離をゆっくり、ゆっくり走るのですが、その時は皆で積極的におしゃべりします。そうするとすごく楽なのです。話に気が紛れて、気が付くと長い距離を走っています。「おしゃべりラン」の効用に最初は半信半疑だったNさんも、だんだん会話が多くなりました。雨も全く気にならなくなりました。

キス・ミー
坂の向こうから突然、甲高い大歓声が聞こえてきました。走って行って驚きました。ヒラリー・クリントン氏が卒業したという名門女子大、ウエルスリー・カレッジの女子大生がコース右側にずらっと並んで応援しているのです。1000人近くはいるのではないでしょうか。ものすごい喚声です。僕は早速、ハイタッチを始めたのですが、彼女たちの多くが何か書いた小さなボードを持っています。ボードには「キス・ミー」。そして頬を突き出し、指でそこを懸命に指しています。そうか、キスしろと言うことか。それなら、ということで、僕は二人にチュッ!としました。こんな応援があるのか。でも悪くありません(笑)。

それにしても沿道の応援は彼女たちだけでなく、凄い。日本国内のマラソンのそれとは比較になりません。「グッド・ジョブ」、「ユー・ルック・グッド」、「グレート」。さまざまな言葉がとてつもない大声で飛んできます。飛び上がったり、手を振ったり。こちらがそれに応えようものなら、もう大変です。指をさし、「お前は凄い!」と言わんばかりに声が一段と大きくなります。お返しに何度「サンキュー」と言いながら、手を振ったことか。

そんなに熱い応援をしてくれるのは、やはりアメリカ人は人が好いからでしょう。陽気で、本当に善意の塊のように見えます。この国には「人見知り」と言う言葉はないのかと思えるほど、見知らぬ人間にもフレンドリーです。街中をガイドブック片手に歩いていると、警官が道は分かるか、と声をかけてくる。朝、ジョギングしていれば、通り過ぎる人が「ハーイ」。5年前、ニューヨークマラソンを走った時、NYに住んでいる友人がこんなことを言いました。「いつもは不機嫌で無愛想なニューヨーカーも、この日ばかりは親切になる」。ボストニアンもそうなのかもしれません。

しかし、それにしても、です。善意の塊のようなアメリカ人がどうして戦争を繰り返すのか。第2次大戦後も朝鮮戦争に始まってベトナム、湾岸、イラク、コソボ、アフガン…。「彼の国を戦争に駆り立てるのは、民主主義に対する過剰な理念と産軍複合体の存在だ」。そんな説を聞いたことがあります。そうかもしれません。僕は高校時代、初めて買ったレコードはエルヴィス・プレスリーの「今夜は一人かい?」でした。プレーヤーをラジオにつなぎ、そのドーナツ盤を繰り返し聞きました。〽アー・ユー・ロンサム~。エルビスのあの甘い声が流れてくると、今でもたまりません。僕はアメリカが大好きです。でも、嫌いです。

25キロに差し掛かる頃です。隣を走っていたNさんの姿が突然見えなくなりました。ペースが遅れだしたのです。彼女と一緒だったから、ここまで僕は順調に走ってこられました。本来ならこちらもスピードを落として待つべきかもしれません。でも僕にはそれだけの脚力はありません。自分のペースを守ることだけで精いっぱいです。落とすと、そのままずるずる遅くなってしまいます。「ごめんね」。心の中でそうつぶやいて、彼女と別れました。

さあ、「心臓破りの丘」です。ピークは33キロ当たり。その前6、7キロの地点から連続して4つのコブが続きます。その高度差は約50メートル。勾配はさほどではないのですが、越えても、越えても山がある。しかも長い。それがバテてくる後半にあるのですからたまりません。僕は30キロの表示が見えたところで、「よしっ!」。改めて気合いを入れ直しました。

いつもならこのころになると僕は股関節が痛くなります。ランが続かず、歩いてしまいます。気力も衰えてきます。ところがこの日は走れるのです。もちろん登りになるとペースはキロ8分台に落ちます。それでも止まらない、歩かない。ゆっくりですが、登っていけます。嬉しい!

ハートブレイク・ヒルズ ・オーバー
コース右手にボストン・カレッジが見えてきました。校門の前に大きなアーチが作られています。そこに書いてあるではないですか、「ハートブレークヒルズ・オバー」。おゝ、越えたんだ!実は走っていてどこがピークか、よく分かりませんでした。でも最大の難所をもう越えたのです、この足で。後は多少のアップダウンがあるといってもずっと下りです。やったー!心の中で叫びました。沿道の応援に思い切り両手を振りました。

こんなに足が動くのには、いくつかの理由が考えられます。東京マラソン以降、20キロのロング3回を含め1か月200キロ走ったこと。キロ7分のペースが守れたこと。Nさんとおしゃべりランができたこと。シューズのインソール(中敷き)調整がうまくいって股関節の痛みが出なかったこと等々。それにもう一つあります。

アメリカに出発する朝、同居している小学2年の孫娘が画用紙に応援の文章を書いて持ってきてくれました。その紙の端に手製の小さな封筒が付いており、それをボストンに持って行けと言う。飛行機の中でその封筒を開けてみると、カードが入っています。それにはこんなメッセージが書いてありました。「マラソンがんばれ!はやくなくていいからがんばれ!」。そうだ、その通りだ。僕は走りながら、このメッセージを何度も思い出しました。孫娘が僕の走りを後押ししてくれました。

いよいよボストン市内に入ってきました。風が強くなってきました。雨も激しくなっています。みぞれ交じりのようです。でも、「だからどうなんだ」。覚悟を決めているからでしょう、そんな気持ちです。不思議なものです。寒さもあまり感じません。その時です。突然声がかかりました。「土肥さ~ん」。驚きました。沿道を見ると、ツアーガイドのMさんがいました。また写真を撮るため移動して、雨の中、傘もささずに待っていてくれたのです。並んで走りながらシャッターを押してくれます。「あと2マイル(3.2キロ)、負けるな!」。走り抜けていく僕の背中にそんな言葉をかけてくれました。有難い。胸に熱いものがこみ上げてきました。「よーし、負けないぞ!」。僕は大声でそう叫びました。

フェンウエイパーク球場が見えてきました。上原浩治投手が所属するレッドソックスの本拠地です。ここがあと2キロの目印。もうすぐです。ボストン市の中心街、バックベイに入りました。コースからは見えませんが、左側にはチャールズ河が流れ、向こう岸には「マサチューセッツ工科大学(MIT)」があります。沿道には公園が続き、街路樹は花水木。まだ寒くて、ほとんど花をつけていません。周りにはレンガ造りの高級マンションが並んでいます。窓辺には美しい花の咲いた植木鉢が置かれています。

コースが右に曲がります。また上り坂です。いや、大した坂ではありません。車で走れば坂とは気付かないかもしれません。でも体力を消耗している僕にはきつい、きつい。最後の気力を振り絞りました。市街地になって増えた沿道からの応援が力になってくれます。約300m、上り切った突き当りがボイルストン通り。そこを左に曲がります。

アイ・アム・バック
さあ、正面にゴール先の大きなゲートが見えました。あと400mくらいでしょうか。「見えたぞ!」。ゴールが僕を呼んでいます。その通りに入ってからの応援がまた凄い、人の数もグンと増えました。強い雨が降っていてもこうなのですから、晴れていたらどんなことになるのか。僕は沿道の応援に、両手を振りながら走ります。そうすると声援はますます大きくなる。彼らが皆、友人であるかのように思えます。もう、ランナーと応援者が一体です。僕は大舞台の上に立っているような気がしました。胸が一杯になりました。「アイ・アム・バック」。僕は親指を立てて、応援席に向かって何度も大声で叫びました。

ゴールです。僕はスタートする前に、自分がゴールする姿をしっかりイメージして、頭に焼き付けました。両手を突き上げ、「やったー!」、そして笑顔。その通りに青く塗られたフィニッシュ・ラインを越えました。僕に向かって長いアームの付いたTVカメラが上から降りてきました。タイムは5時間22分12秒。NYは4時間41分52秒でした。でも自分で決めたとおり、1キロ7分のペースをほぼ守れました。それに長い上り坂があるのに全く止まらず、一歩も歩かなかった。歩かなかったのはNY以来かもしれません。

ゴール先のゲートをくぐると、大会役員でしょうか、揃いのブレザーを着た男性が握手を求めてきました。僕は握手すると同時に、思わず抱き付いてしまいました。そんなことをするとは、自分でも全く予想していませんでした。彼はしっかり受け止めてくれました。「コングラチュレーション」。耳元で静かに言ってくれます。「サンキュー」。僕も応えました。その後、若い女性がボストンマラソンのシンボルカラー、黄と青のリボンの付いた完走メダルを首にかけてくれました。七宝焼きのような立派なそのメダルにはユニコーンが描かれていました。こうして「僕のボストン」は終わりました。70歳の素晴らしい記念になりました。

また長いレポートになってしまいました。でもまだまだ書き足りないことがあります。ボストンマラソンが月曜日に行われる理由。当日は多分全州から集めたらしいスクールバスが数珠繋ぎになり、ボストン市中心にある公園、ボストン・コモンからホプキントンまでランナーを運んでくれること。2年前のテロ事件以降、黄と青がシンボルカラーになったこと。沿道で日本人の女性二人が小さな日の丸を振って応援していてくれたこと。ご夫婦で参加し、ボストンで6大マラソンを制覇してしまった60代の女性ランナー、Wさんのこと。打ち上げでツアー仲間と食べた生牡蠣とロブスターの美味しかったこと等々。しかしそれはいつかお会いした時にでも、お話ししましょう。

最後まで読んで頂き有難うございました。これで今シーズンのレポートは終わります。75歳ではどこを走っているでしょう。ロンドン、ベルリン、あるいはモンゴルの大草原かもしれません。これから暑い夏に向かって、来シーズンへのトレーニングを始めます。ではお元気で。またお会いしましょう!

鴎飛ぶ異国の街や春霙

土肥 一忠

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