山本美香さんの「死」が教えてくれるもの

少しばかり格好つけた言い方をすると、ジャパンプレスの山本美香さんの「死」が、ジャーナリスト魂を呼び覚ましてくれる。
山本さんは8月20日に内戦状態のシリアで取材中に銃撃されて亡くなった。まだ45歳だった。彼女が最後に撮ったビデオカメラには、アレッポ(シリア北部の町)の、赤ちゃんを連れた家族や白いスカーフを付けた女性たちが映っていた。撮影しながら「ハロー、ハロー」と声をかけ、「兵士がやみくもに撃っている」と話す緊張した声も録音されていた。
生前、山本さんは「戦火で苦しむ市民の姿、外には届かない声を伝えたい」「生命の危険にさらされながらも笑ったり、生き延びようとしたりする姿をとらえたい」と語っていたという。
常に弱者の側に立とうとする山本さんの姿勢には、同じジャーナリストとして頭が下がる。英BBC放送は異例の長さで彼女の死を伝え、米国務省の報道官も哀悼の意を述べた。心から山本さんの冥福を祈りたい。
私の先輩記者の女性編集委員も、8月29日付の産経新聞で山本さんのことをコラムに書いている。
「あなたが無言で帰ってきた先週の土曜日、私はご自宅にあなたに会いに行きました。1階の客間であなたはまぶたを静かに閉じていたけど、その瞳はいまも何かを凝視しているようでした。不条理への激しい闘志を私は感じた。意識を失うその瞬間までビデオを回し続けたあなたは、戦ってきた顔で眠っていました」
「『ジャーナリズムで戦争が止められるか』と問われ、きっぱりと「止められます」と答えていた美香ちゃん。これから、伝えたいことがたくさんあったのだと思う」
このコラムを読んで涙が止まらなかった。自分は山本さんに会ったこともないし、取材したこともない。だが、山本さんを知れば知るほど、ジャーナリストはどうあるべきかを考えさせられる。
山本さんの死をきっかけにそんなことを思いながら、最近、1冊の本を自宅の本棚の奥から取り出した。タイトルは『虫に書く』(潮出版)。発行が1972(昭和47)年11月とあるからいまから40年も前に印刷された本で、表紙や中のページが茶色く色あせてきている。

 

サブタイトルは「ある若きジャーナリストの死」。著者は国際ジャーナリストの大森実氏(2010年3月、88歳で死去)だ。この本には大森氏のまな弟子の中島照男という青年ジャーナリストの半生が描かれている。
中島記者は、大森氏が毎日新聞社を退社して大森国際問題研究所を設立し、67年から3年間、週刊新聞の東京オブザーバーを発行したときに活躍した。同紙廃刊後の70年5月、単身、内戦の始まったカンボジアに渡り、取材中にポル・ポト派のクメール・ルージュに殺害された。27歳という若さだった。
当時の報道によれば、中島記者が米国製の服を身に付けていたために米軍関係者と勘違いされて銃殺された。ベトナム戦争への反発など反米運動が盛んなころで、中島記者も反米の立場からクメール・ルージュを支持した。しかし、皮肉にもそのクメール・ルージュに殺された。戦争ほど理不尽なものはない。
ページをめくると、古本特有の臭いとともにむかし自分で引いた赤鉛筆のアンダーラインが目に飛び込んでくる。
「普通のサラリーマンになる気など、さらさらなかった。出世も、カネも、幸福も、打算もなかった」
「小さな虫となって、1人ではい回り、人間と歴史の断面を考えるんだ」
「やがて君(中島記者)の精霊は、ジャーナリズムの鬼となって復活し、君の同僚や後輩の心の中に生き返るであろう」
中島記者の生き方には圧倒される。山本美香さんのジャーナリスト魂にも通じるところがある。それに比べ、自分は同じ新聞記者として中島記者や山本さんのようにひたすら過酷な現場を追い続けてきただろうか。
とくに『虫に書く』は、大学時代に繰り返し読んで「新聞記者になる」と自分を決意させた本でもある。確か、慶応大学の新聞研究所(現メディア・コミュニケーション研究所)の本棚に置いてあるのを見つけ、本屋を探し回って自分のためのこの1冊を購入した記憶がある。
だれしも若いころは熱い思いを持っている。それが年を重ねるごとに、日常の生活や仕事に追われるなかで薄れていく。大切な情熱が現実と理想とのギャップに埋もれてしまう。
だからこそ山本さんのような事件をきっかけに若いころの情熱を思い出し、熱い思いを忘れないように心掛けたい。これは未熟な自分に対する戒めである。
(産経新聞論説委員 木村良一)

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