学問の独立性の危機
日本の学問の独立性が今、大きな岐路に立たされている。政府は2025年3月7日、日本学術会議を2026年10月に現在の「国の特別機関」から「特殊法人」へ移行させることを柱とする新しい日本学術会議法案を閣議決定した。この動きに対し、多くの研究者が危機感を抱いている。「学問の自由」や「自主性」は、一度失われると簡単には取り戻せない。それにもかかわらず、なぜこのような危険な道を進もうとするのか。これは、学問・研究の「自殺行為」とすら言える。
まず、法人化の本質的な問題を整理しておく。現在、日本学術会議は内閣府の「特別の機関」として、政府から予算を受け取りながらも、独立した立場で政策提言を行う役割を担っている。しかし、法人化されると財政の独立が求められ、政府補助の削減が現実的な課題となる。資金調達のために企業や民間団体からの寄付に依存せざるを得なくなれば、学術会議の提言が特定の利害関係者の意向に左右される危険がある。これでは、「学問の独立性」とは名ばかりになりかねない。
さらに、法人化後は「監事」や「評価委員会」が新設され、これらのメンバーを政府が任命することが予定されている。つまり、学術会議の活動を政府がチェックし、都合が悪ければ介入できる仕組みが整えられるということだ。これまで、日本学術会議が政府の方針に対して異論を唱えたり、軍事研究を拒否したりしてきた経緯を考えれば、この変更がいかに危険であるかは明白である。
また、法人化後の会員選出方法も問題視されている。従来は学術会議自らが候補者を選び、首相が任命する形を取っていたが、法人化後は「新しい特別な方法」で選出するとされている。政府が直接関与せずとも、より巧妙な形で政治の影響を受ける可能性がある。学問は本来、批判的精神を持ち、時に政府の方針に対しても独立した見解を示すものである。しかし、この新制度が導入されれば、政府にとって「都合の良い学者」だけが選ばれ、異論を唱える者は排除される構造が生まれる可能性は否定できない。
この法人化は、国際的な学術評価にも悪影響を及ぼすだろう。アメリカの科学アカデミーやイギリスの王立協会など、世界の主要な学術機関は政府から独立しており、自由な学術活動が保証されている。日本学術会議が政府の影響下に置かれるようになれば、国際的な学術ネットワークの中で孤立する危険があるのは想像に難くない。「日本の学問は政府の管理下にある」という印象を持たれれば、優秀な研究者が海外へ流出することにもつながりかねないのだ。
科学史における学問の独立性の重要性
歴史的に見ても、学問の独立性が奪われた結果、国家が科学を利用し、社会を誤った方向へ導いた事例は少なくない。例えば、旧ソ連のルイセンコ学説はスターリン政権下で政治的に重視され、遺伝学の正しい発展を妨げた。この影響でソ連の農業政策は大きな失敗を経験し、飢餓を引き起こした。ナチス・ドイツでも、政権に従順な科学者のみが重用され、「アーリア人至上主義」に沿った学問が推奨された。こうした事例は、政治が科学を支配しようとすると、学問の発展そのものが阻害されることを示している。
日本でも、戦前・戦中において学問の自由が制限され、政府の意向に沿った研究のみが奨励された過去がある。軍事研究に傾倒し、批判的な学者が弾圧される状況は、現在の学問の独立性が危機に瀕していることと通じる部分がある。
世界的な潮流と権威主義国家の増加
現在、世界的に権威主義的な政治体制が増加しつつある。中国やロシアでは、国家の方針に沿った研究が奨励され、政府に批判的な学問や研究機関は資金供給を絶たれる状況が生じている。欧米においても、政治と科学の関係が揺らいでおり、米国では政権によって環境科学や感染症研究が政治的な影響を受けた事例がある。
日本においても、こうした権威主義的な傾向が強まれば、学問の独立性がさらに損なわれる可能性が高まる。政府の意向に沿った研究が優遇される一方で、批判的な視点を持つ学者が排除されれば、長期的には日本の科学技術や社会全体の進歩が停滞する恐れがあるだろう。
学問の自由を守るために
そもそも、なぜこの法人化が進められているのか。
その背景には、日本学術会議がこれまで政府と対立してきた歴史がある。2020年の「6名任命拒否問題」は、その象徴的な出来事であった。学術会議が推薦した会員候補6名を、菅政権が任命しなかったことで、政府の意向が学問の人事に影響を及ぼす前例が生まれた。これに対して強い批判が起こり、学術会議の独立性が改めて問われたが、政府側はむしろ「学術会議は閉鎖的である」「もっと改革すべき」との論調を強めた。その結果、法人化という「改革案」が持ち上がったのである。
しかし、改革の名のもとに学問の自由が損なわれるならば、それは本末転倒である。確かに、日本学術会議の在り方には改善の余地があるかもしれない。しかし、それは政府の管理を強める方向ではなく、むしろより透明性の高い独立した制度を構築する方向であるべきだ。法人化によって政府の監視が強まり、学術会議が政府の「御用学者集団」となってしまえば、それは学問にとっての自殺行為にほかならない。
日本学術会議の法人化は、単なる制度変更ではなく、学問のあり方そのものを変えてしまう危険な一歩である。この問題を決して軽視してはならない。
佐久間憲一(牧野出版社長)