シリーズ “伝説の商社マン” J.W.チャイ元伊藤忠商事副会長の思い出 
⑴ 厳しかった日本人駐在員への批判

 伊藤忠商事といえば直ぐに思い浮かぶのは小説「不毛地帯」の主人公として有名になった瀬島龍三元会長だろうと思います。恐らくその次に有名なのが当時「巨人たちの握手」と呼ばれたトヨタとGMの提携を実現させ、NHKのドキュメンタリー番組「伝説の商社マン」で取り上げられた韓国系アメリカ人J.W.チャイ元副会長ではないでしょうか。そのチャイさんが今年10月4日米国において89歳でお亡くなりになりました。
私は1994年から2001年、つまりチャイさんが伊藤忠インターナショナルのCEOと伊藤忠商事副社長・副会長を経て2001年にご退任になるまでの間、ニューヨークでチャイさんの下仕事をしておりました。長年に亘りチャイさんは私の人生の師であると同時にニューヨークの「オヤジ」でもありました。又、この方との出会いは当時44歳だった私の人生観を一変させる事になったのです。チャイさんのユニークな人柄を表すエピソードは数限りなくあります。ここではチャイさんの足跡を辿りながらその内の幾つかを述べてゆきたいと思います。
 私の知らない昔の話となりますが、チャイさんは1934年日本の占領下だった韓国の大邱生まれで父親は満鉄病院の医者でした。慶北大学の農業化学科を卒業後、最初はドイツの機械商社に勤務していましたが、次兄の暮らすロサンゼルスにたった250ドルをもって新天地を求め「転戦」したといつも語っていました。ここで南カルフォルニア大学のビジネススクールに通い直し研鑽を重ねます。出会った在日韓国資本の紡績会社のオーナー経営者の姉に当たる女性と結婚し、それがきっかけで1961年に取引先の伊藤忠アメリカに入社することとなります。当時は「日本の会社に韓国人が入社しても虐められるだけ」と母も大変心配されていたそうです。案の定、最初の仕事は「使い走り」ばかり。辞めたいと口にした時に上司だった瀬島龍三業務本部長に「ばかたれ」と一喝されたようですが、その内いすゞの外資提携先を探すという重要なミッションの担当に抜擢されます。チャイさんの最初の手柄とされるいすゞとGMの資本提携が1971年に実現します。瀬島さんにはよく作成資料を破り捨てられたと言っていましたが、私も瀬島さん宛ての資料をかつて何度か作成したことがありました。「瀬島流」ではどんなに複雑な案件でもかならず説明資料は書類1枚としてポイントを箇条書きにするよう厳しく求められていました。
この頃からチャイさんは徐々にGM、特にCEOのロジャー・スミスとその後継者で次にCEOとなったジャック・スミスに食い込みこれが1984年に成就したトヨタとGMの合弁生産事業に繋がっていきます。
 この間、チャイさんは1973年にはイトーヨーカ堂とセブンイレブンの本社サウスランド社との提携、1981年に「鯨(GM)とメダカ(スズキ)が手を組んだ」と揶揄されたスズキとGMの資本提携、そして1984年のトヨタ・GMの合併生産事業と実績を重ねていきます。この実績を踏まえて1987年に上場企業としては珍しかった外国人取締役に就任しました。
 私は1974年大学卒業後、伊藤忠商事に入社し1986年から衛星事業の立ち上げを担当、その後放送・コンテンツ・メディアを扱うようになりますが、1991年チャイさんが仕掛けた米国巨大メディア・タイムワーナー(ここからTWと呼ぶ)への出資がきっかけとなりチャイさんとの接点が出てきます。それまではチャイさんはメガ・マージャーを幾つも実現した「伝説の商社マン」であり雲上人だと思っていましたが、1994年伊藤忠アメリカ(NYK)駐在の発令と伴に、英語で言うところのOur paths have crossed 「人生の出会い」が始まります。
 ニューヨークに出発するに当たり、伊藤忠の社長になると噂されていた当時の上司森専務から「チャイさんは比類なき商売人で部下には非常に厳しいから覚悟して行け。6年間頑張ったら日本に戻す。」と言われたのを鮮明に記憶しています。正直申し上げて雲上人のチャイさんの部下になることには恐怖感がありました。予想の通り着任して直ぐに言われたのは「俺は部下を評価する物差しはたった一つ。儲けているか?だけ。顔がいいとかナイスガイとかゴマすりが上手いとかは全く関係ない。<銭儲け>が出来るかだけ。だから、お前もせいぜい<銭儲け>せよ!」「その代り幾ら経費を使っても文句は言わない。世の中では経費削減が叫ばれているが、俺はそんなくだらない事は言わん。交際費も使いたい放題使ったら宜しい。出張でファーストクラスに乗ろうが、超一流のホテルに泊まろうがそれは一切君の自由だから好きなようにやってよい。ただ儲けてくれ。」今思い起こしてもこれがチャイさんの代表的な決まり文句です。
 Wall Street Journalにチャイさんのインタビュー記事が載ったことがあります。その中でのチャイさんの発言が伊藤忠社内でも物議を醸しだしました。それは「もし男郎屋というものがあるならば、日本から来ている駐在員をまとめてそこに売ってしまいたい」という発言でした。その背景にあるチャイさんの問題意識は、まず第1に日本人は給料が高い。第2に日本人同士でいつも群れていてアメリカ人と交わろうとしない、第3に日本の本社ばかり見て仕事をしている。要するに経費ばかり掛かって非常に効率の悪い集団だと見ておられた。だから伊藤忠アメリカの駐在員は圧倒的に他の商社の駐在員に比べて数が少なかったと記憶します。
アメリカにおける私の仕事は出資先のTWとのalliance management(提携管理)となっていました。そこでチャイさんに最初に言われたのは「まずTW社に食い込め」でした。初めの数か月、特にTWとの関係に進捗がある訳でもなく、定期報告をしても「分かった。もういいよ(早く部屋から出ていけ)」だけでしたのでチャイさんへの報告は気が重くなるばかりでした。この重い雰囲気が一変したのはある時チャイさんに同行しTWとの株主協議会の議事録を作成した時でした。株主協議会にはTW側からは会長のレビン氏、CFOのリチャード・ブレスラー氏、TWがCNNグループを買収した後にはCNNの創始者で億万長者のテッド・ターナー氏も加わり経営幹部が勢揃いしていました。
 日本語で議事録を作成しチャイさんに提出した数日後、チャイさんの秘書のフローレンス・チャンから「チャイさんが呼んでます」とお呼び出しがあり(何を怒られるのかと心配しながら)行ってみるとチャイさんがいつもと違うニコニコ顔で私を待っていました。チャイさんは私の作成した議事録を熟読されていて「この議事録はよく出来てる。君は駐在経験がないのに何でこんなに詳細なメモが取れるのか?」がチャイさんの反応でした。その上「他の駐在員ではこれは出来ん。この英語力ならTWに食い込めるからこの調子で頑張れ」と初めて励ましの言葉を頂戴しました。
 ともすると大企業のトップは目の前に積まれた書類に中々目を通す時間がありません。ところがチャイさんは違います。毎朝早くからメジャーな日米の新聞や雑誌は(誇張ではなく)ほぼ全紙に目を通し、気が付いた記事を自分で破ったり定規で切り抜いたり、読む時間がなければ大きな薄汚れた布製の鞄に詰め込んで家に持ち帰り、更に山と積まれた業務書類に目を通す時間をもっていました。(「日本人にとりアフター5は酒の時間。俺にとっては仕事と勉強の時間」)従い、朝は部屋の中一面が新聞・雑誌で散らかっていました。この時間は鬼気迫るものがありチャイさんには近寄り難い雰囲気が漂います。チャイさん曰く、Newspaper is a poor man’s university. 「最低限の情報は全て新聞にあり」
私もそれから必ずWall Street JournalとNew York Timesだけは必ず目を通してから出社するように心がけるようになりました。((続))
木戸英晶(前ADK取締役会議長)
*参考資料:「仕事人秘録」(2013年日経産業新聞)

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