立花隆の思い出

立花隆氏とは一体何者だったのか。

氏が亡くなったとの報があってからひと月以上経つが、新聞雑誌などの活字メディアはもとより、ネット上やテレビ番組でも多くの特集が組まれている。

ひとりの人間が為し得たにはあまりに膨大、深遠な著作の量に圧倒されての問いかけは、今後、様ざまな書き手によって明らかにされることだろう。

ここでは、新潮社に在籍当時、一編集者としてかかわった立花隆氏の思い出を記したいと思う。

最初の出会いは、月刊誌「シンラ」(現在は休刊)の「マザーネイチャーズ・トーク」という連載企画のしごとだった。

新卒入社から8年間在籍した写真週刊誌「FOCUS」の部署から書籍の編集部に異動したとき、立花隆氏の担当編集者がいなかったことを幸いに自ら名乗りをあげた。雑誌の連載が始まったのに、書籍化する部署に担当者が不在というのも不思議というか呆れたが、当時の新潮社では、「立花隆は文藝春秋か講談社の書き手」という認識が強かったせいか、売れっ子ノンフィクション作家でも積極的にアプローチすることをしていなかった。

連載は、第一線のサイエンティストとの「知の対話」といった内容。相手になった研究者は、河合雅雄(サル学)・日高敏隆(動物行動学)・松井孝典(惑星科学)・多田富雄(免疫学)・河合隼雄(精神分析学)・古谷雅樹(植物学)・服部勉(微生物学)といった面々だ。

カバーするジャンルの広さは氏の好奇心の表れだが、目を見張ったのが本番前の準備にかける熱量だ。強度といってもいいかもしれない。月刊誌だから毎月のことになるのだが、相まみえることになる分野の書籍を入門書から専門的なものまで、立花氏のことばを借りれば「ザッとひと山」(20冊以上)読んでくるのだ。

じっさいの対談に入ると、その事前の仕込みによって凄みが放たれる。

当然のことながら、一般読者を想定しているからごく初歩的な質問からはじまる。がしかし、学問分野を俯瞰した説明を求められて最後は穏やかに締めくくるのかと思いきや、いきなり核心に迫る問いを仕掛けて、対談相手が一瞬たじろぐなどということもあった。日高敏隆氏には気の毒だが、そんな様子が紙面上でもスリリングに再現されている。

ただ、立花さん(の呼び方がしっくりくる)との一番の思い出となると、1996年から2年間、東大教養学部で開かれた「立花隆ゼミ」に記録、サポート係として参加したことだろう。

講義前の資料収集・作成から、当日のビデオと音声(ともにデジタル)の記録など、ほぼ毎週駒場に通っていた。

私自身の大学時代よりもはるかに勤勉だった。

立花さんが東大で講義をするという情報が出版業界に伝わったとき、各版元からその記録を残してまとめたい、とオファーが殺到した。わが新潮社が何とか獲得したわけだが、その理由は私が理系出身ということだった。

立花さんの構想している講義が、人文・社会科学と自然科学の融合を目指す。C・P・スノーの『二つの文化と科学革命』を念頭においてのことだった。

記録のほうはともかく、毎週の事前準備は、相当に苦労したし、精神的に追い詰められるようなことも度々。

それは、要求されるものが、当時のネットで検索しても容易に調べのつかないものだったり(そもそも存在しない)、簡単な心理実験のツールだったり、予想のつかないものがしばしばあったからだ。なおかつ、立花さんへは「分かりませんでした」「用意できませんでした」という台詞が通用しない。

はじめて立花さんと会うことになったとき、当時の秘書の佐々木千賀子さんから言われた「立花は、無能な人を憎むほど嫌いますから」ということばが、いつもアタマの中でこだましていた。

ゼミの2年目に入ったとき、学生自身が企画を出して、その企画を出版社に売り込み書籍の刊行を目指す、というプロジェクトが立ち上がった。

その年の夏休み前だったか、企画のプレゼン会が開催された。私へもプロの立場から案を出せとのお達しがあり、学生に交じって発表した。テストみたいなものだ。

決定した企画は〈二十歳のころ〉というもの。

二十歳前後の年齢であるゼミ学生がみずから、関心のある人物を訪ねて、その二十歳のころの聞き書きをする、といった内容だ。その人物が有名であるか無名であるかは問わない。本当にその人の話が聞きたい、という思いが大切。取材のアポとりからじっさいの取材、原稿執筆まで、すべて学生自身が行う。

じつは、企画の提案者は私だったが、面目をたもったと安堵したのを覚えている。

公開模擬取材ということで、大江健三郎氏の二十歳のころを立花さんが満員の大講義室で行ったのも懐かしい。

現実にそのプロジェクトを進めていくと、予想されたことだが、原稿のバラツキがかなりあった。そのままでの出版はむずかしい。プライベート版を4、5冊刊行しながらブラッシュアップを重ね、1998年『二十歳のころ』というタイトルで新潮社より大部な1冊として刊行にいたった。

その後、ゼミ生による『環境ホルモン入門』(現在の知見からは、多少問題のある1冊かも知れないが)、『東大講義』へと続くことになる。

小日向のネコビルには、何度も足を運んだが、事前に電話でアポをとると忙しいと、断られることが多かったので、原稿執筆の合間を秘書の佐々木さんに訊ねて突然押しかける、というやり方が私の流儀だったが、拒否されたり嫌がられたりすることはなかった。それは、立花さんの出自が、雑誌ジャーナリズムであるのと無縁ではあるまい。

いわゆる世間話的な雑談の類いは一切しなかったが、立花さんのきわめて広範囲、多岐にわたる知的好奇心を刺激する話題には目を輝かせて語り、耳を傾ける姿はいまも強烈な印象に残っている。

本当に、人間が好きで、人間とはいったい何なのだろうかを問い続けた人だった。

私が執筆依頼した日本国憲法についての原稿は、ついぞ未完のままになったが、そういった原稿は十や二十ではなかろう。

各出版社、編集者の元に残されているそれらも、単行本には結実されることのなかった立花さんの知的関心、好奇心の一端なのだ。

ご冥福をお祈りいたします。

佐久間憲一(牧野出版社長)

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