非武装中立論争~中曽根元首相、石橋元社会党委員長 逝く~

かつて国会は真剣勝負の舞台だった。中曽根康弘元首相、石橋政嗣元社会党委員長と相次ぐ論客の訃報に接して、1983年9月、両氏が国会で「安保、憲法」を戦わせた党首討論が思い出された。中曽根氏は64歳、石橋氏は58歳。それぞれ首相と社会党委員長になって間もない。

中曽根氏は海軍、石橋氏は陸軍、駐留軍労組委員長から社会党議員。経歴も性格も異なるが両氏とも大事なことをメモした大学ノートを、何十冊も机に積み上げるほどの勉強家だった。討論は本会議場での代表質問形式ではなく、予算委員会室で一問一答形式が選ばれた。両氏の意気込みがうかがえる。テーマは両氏お得意の憲法と外交、安全保障問題だ。当時の議事録からさわりの部分を引用してみよう。

石橋社会党委員長:皆さん方は軍事力によって日本の安全を守ろうとする。私たちは、非軍事的な手段、特に外交的な手段を中心に据えて日本の安全を図ろうとする。

中曽根首相:いかに理念が良くても結果が悪かったら、それは責任を全うできない、これが政治の世界である。
石橋:中曽根首相自身が本当に過去の戦争、日本の軍国主義の犯した犯罪というものに対して腹の底から反省しているだろうか、そんな気がしてならない。
中曽根:過般の戦争について我々が重大な反省をしなければならぬことは事実だ。あの戦争について厳しい自己批判、自己反省をしている演説を私は各地でやっている。
石橋:日本は地理的条件も非常に恵まれている国だ。日本がみずから紛争の原因をつくらない限り、他国から侵略される恐れというものは極めて少ない国だ。明治以降はこちらが全部侵略した、そういう戦争だ。
中曽根:日本は海国であるから侵略されないだろうというお話だが、私は、自分で防衛しなければ侵略される危険が出てくる、いつでも出てくる、そう思っている。一番いい例が北方領土だ。もし、あそこへ日本軍がおり、あるいはアメリカの軍がおったらソ連は入ってこないということになっておったらしいと、北千島作戦参謀だった人が書いた本に書いてある。
石橋:抑止理論でいくと、とてもおっかなくて日本には攻めてこられないというような脅威を与えない限り、それぐらいの軍備を持たない限り、抑止の効果は発揮できない、常識だ。第一は、兵器の発達がもう過去と全然違う。それから国内には危険物と言われるものが無尽蔵にある。こういう状況の中で、どんなに困難であろうと、すべてをかけて戦争回避、そう考えた場合には、どこの国とも仲良くしようとう必死の思いが出てくるのが、政党政治家としては必然ではないか。
中曽根:(日本が)独立して存在する以上は、憲法は、存在を守る、独立自尊を守る方策を講じておらなければ憲法ではない。必要最小限の自衛力をもって、自衛権を有効に発動し得るような体制をつくっておくことが憲法を守るゆえんだ。そういう措置まで講じないでおくということは、これは結局、護憲ではない、憲法を捨てることだ。私に言わせれば、棄憲である。これは全く危険な考えだ。

討論は2時間に及んだ。時々、ヤジが飛ぶと委員長が「国民注視の論戦ですからどうかご静粛に」と制していたのが印象的だ。2人の討論は、非武装中立論争として後に語り継がれた。党首討論が導入されたが、このような白熱論戦はお目にかかれない。

中曽根政権については多くのメディアが、功罪を含めて論じているのでそちらに譲る。社会党はその後、土井たか子委員長が党改革に挑み、自社連立で社会党委員長の村山富市首相が誕生したが、いまやかろうじて社会民主党に命脈が引き継がれる。それから幾星霜―。

7、8年前、東京銀座松屋の喫茶店で、担当していたころの何人かと懇談した。石橋氏は、政治改革とは名ばかりの「小選挙区制」の狙いを見抜けずに、推進の先頭に立った。政治浄化ならば英国の政治腐敗防止法をモデルに、選挙費用に厳しい制限を付ける案を提案すべきだった。理念や政策を有権者、党員に無断で放り出し、自民党一党支配をより悪い形で蘇らせた―と語った。
少し経って、岩波新書「勲章―知られざる素顔」(栗原俊雄著)が石橋氏から送られてきた。「著者が君と同姓だから関係者かと思って」と、独特の小さな字で書かれた便箋が挟んである。そのページには「人の上に人をつくらずで、勲章は文化勲章のように等級なしにすべきだ」という持論が紹介されてあった。

栗原猛(政治ジャーナリスト)

Authors

*

Top