大阪・福沢諭吉生誕の地で改めて思う

 福沢諭吉が大阪・旧中津藩蔵屋敷で生まれたことは知られている。しかし、その跡地付近に「福沢諭吉誕生地」の記念碑があることは案外知られていない。ハトが羽を広げたような、ちょっと変わった形をしていることもあって、以前から来歴を知りたいと思っていた。今春、JR大阪駅北側にある「慶應大阪シティキャンパス」(KOCC)を訪問した際、たまたまスタッフの小崎由紀子さんから記念碑に関する論文があることを教わった。慶應義塾福沢研究センター、都倉武之准教授が著わした『福沢諭吉誕生地小史』(『近代日本研究』第27巻、2010年)である。一読して筆者の疑問は氷解した。資料を丹念に調べ、関係者を探し当てて面談したりして時系列に沿って詳細に整理された労作である。この論文を参考に、記念碑について改めて紹介したい。都倉論文をなぞるようで恐縮だが、論文は約60㌻(A4判)の長文で、容易には入手しにくい。詳しくは三田の図書館などで参照されたい。

 ちなみに、KOCCは再開発が進む「うめきた」の複合商業施設「グランフロント大阪」内に設けられている慶應義塾の関西の拠点。2008年に中之島に「慶應大阪リバーサイドキャンパス」として開校されたが、2013年5月に全面移転された。大教室(定員105人)や会議室、研究室などがある。社会人向けの公開講座なども開かれており、筆者もたまに聴講している。今夏には、展示と研究報告会「慶應義塾と戦争・忘れられた戦争のカケラ」(慶應義塾福沢研究センター主催)が開かれ,反響を呼んだ。

 誕生地の記念碑は、大阪市福島区福島1丁目、朝日放送本社ビル前にある。社屋前の案内版によると、堂島川沿いの中之島一帯には中津藩

(大分)、延岡藩(宮崎)、壬生藩(栃木)などの蔵屋敷が建ち並んでいた。諭吉は1834(天保5)年、ここの中津藩屋敷で生まれた。と言っても屋敷跡の面影はまったくない。当地に住んだのは生後1年半ほどに過ぎなかったが、後に蘭学者、緒方洪庵が大阪・北浜に開いた「適塾」に3年余り学び、塾頭を務めるなど大阪は有力な慶應義塾ゆかりの地である。

 現在の「福沢諭吉誕生地」記念碑=写真=は1954年に建立された。大阪・関西在住の塾卒業生らの声が大きなきっかけになった。周辺に木立が配され、小公園のように整備されている。中央の碑の高さは166㌢、最大幅133㌢。角柱の両側にハトが羽を広げたような形をしている。裏側にはハトの立ち姿の石像があり、見ようによってはこちらが正面に見える。題字は元塾長で経済学者の小泉信三の手による。碑の真下に縦77㌢、横104㌢の碑文(撰文)がある。塾員で経済学者の高橋誠一郎が文章を草し、高橋の依頼で塾員で書家の西川寧がしたためた。

撰文は「幕末明治の大教育家福沢諭吉先生こゝに生る」で始まり、「彼(注・父百助)は妻お順が、大きな痩せて骨太な五番目の子を産んだ時『これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする』と語ったと伝へられている」

と書き進み、「この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が予見し得たであろうか」と結んでいる。当初の設計では角柱だったが、隣接の大阪大医学部付属病院(当時)から、墓標のように見えるとのクレームがあり、平和の象徴のハトをあしらった形に変更したとされる。

 東側には高さ0・8㍍、幅1・2㍍の御影石の碑。福沢諭吉著『学問のすすめ』の有名な一節「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズ」が記されている。生誕150年の1975年に建てられた。背面に「昭和六十年一月十日 福沢諭吉生誕地顕彰会建之 慶應義塾長 石川忠雄書」と刻まれている。

 記念碑の西端にある高さ約2㍍の角柱には「豊前国中津藩蔵屋敷之跡 大阪堂島玉江橋北詰」とある。碑ができてからだいぶん後の1983年、福沢の郷里、大分県中津市が建立したという。

 中央の記念碑が作られた1954年11月4日には除幕式が行われた。潮田江次塾長、全国連合三田会代表武藤絲治、大阪大総長今村荒男、小泉信三ら約200人が出席、関西在住の福沢の子孫右近久子が除幕したという。さらに、1960年1月10日の福沢誕生日には記念碑前で、塾長も参加して「福沢先生生誕125年記念式典」が行われたと記録されている。

 しかし、現在のように整備されるまでにはとても複雑な歴史があったといい、小史に経緯が詳細に記述されている。今の記念碑は2代目で、初代は1929(昭和4)年建立された。碑には「福沢先生誕生地」と刻まれた。直径約60㌢、高さ約3㍍の鋳銅の円筒形で、彫刻家、朝倉文夫が設計、題字は塾員の政治家、犬養毅が揮毫した。建設費は募金でまかなわれた。その年の11月26日に開かれた除幕式には、林穀陸塾長はじめ、諭吉長男の一太郎氏、4女志立滝らや在阪塾OB約150人が出席した。

 この初代記念碑は残念ながら、約15年後の1940(昭和18)年、戦時の物資不足を補う「金属類回収令」により供出されてしまった。

 再建話が動き出したのは戦後、世の中が落ち着きだした1952(昭和27)になってから。この年、全国連合三田会総会が20年ぶりに大阪で開かれた折り、再建話が持ち上がり、実現に向けて動き出した。現在の碑ができた後も、土地の所有者がころころ変わったこともあって、碑の場所が数十㍍ずらされたり、見学が中止されたりしたようだ。今の朝日放送本社ビル前に落ち着いてからは、塾関係者にとどまらず、足を止める通行人も見受けられる観光スポットになっている。(敬称略)

七尾 隆太(元朝日新聞記者)

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