<シネマ・エッセー>関ヶ原

 東海道新幹線に乗り、列車が「関ヶ原トンネル」を通るたびに、私の思考に”転換”のスイッチが入ります。上り列車のときは「これからは東日本だ」という一種の緊張感。下りの場合は「関西に帰った」という感慨です。トンネルの西側、近江にルーツを持つ私にとっては、横浜が終の棲家となった今も昔も,変わらないのです。

 滋賀と岐阜の県境にある「天下分け目の」関ヶ原の合戦は、司馬遼太郎の原作を映像化した大作。公開と同時に映画館へ駆けつけました。豊臣秀吉が慶長3年(1598年)伏見城で死去(62歳)した2年後の秋。天下取りを狙う徳川家康(役所広司)の東軍と、豊臣家の再興を賭ける石田三成(岡田准一)の西軍が、史上最大の死闘を繰り広げた6時間の攻防を中心に、ドキュメンタルに再現しているのですが、私が一番興味を持ったのはやはり、秀吉子飼いの三成の人間像と、その哀れな最期でした。

 出世街道を突っ走る秀吉が長浜城主となったある日、鷹狩の帰途に立ち寄った寺で茶を所望したところ、給仕に出た寺の小姓・三成が最初大ぶりの茶碗にぬる目の茶を一杯に入れて出し、もう一杯所望されると、少し小さ目の碗にやや熱くした茶を出します。さらに所望された3杯目は小ぶりの碗に熱く点てた茶を出したのです。客の様子を見ながら、その欲するものを出す心働きに感心した秀吉は、その小姓を城に連れて帰り家来とします。豊臣家の”文官”として、五奉行の一人にまで出世する石田三成の有名なエピソードです。

 秀吉の側室で、秀頼の母である淀君に重用され、秀吉亡き後の豊臣家の再興を西国の諸大名と同盟して進める三成と、歴戦の実力と策謀で一気に天下取りを狙う家康の対決は日増しに高まり、映画は二人の性格と手法の違いを克明に描いて行きます。そして、最後に決戦の地、関ヶ原に東西両軍が集結するのですが、中でも最も注目されたのが、豊臣家の子飼いとも言うべき小早川秀秋(東出昌大)の動向でした。

 秀秋も三成と同じ、近江の生まれで、豊臣秀吉の正室・ねね(高台院)の甥として寵愛されて育ち、毛利系の小早川家と養子縁組。合戦前は西軍に参加し、関ヶ原の松尾山に布陣。最後は家康の催促に応じて東軍に寝返り、西軍壊滅のきっかけを作ったのです。
東西両軍激突の戦場シーンのあと、敗軍の将、三成は一人山中に逃げるのですが、原作で司馬遼太郎は、三成が討ち死に、または自決せずに領地の近江になぜ逃げたのか、その心境をつぶさに書いています。

 『三成は伊吹の山中に入った。目的は大坂へ行くゆくためである。できれば城門をとざし、籠城の態勢をととのえ、家康に対していま一度決戦したかった。成らねば九州に落ち、家康討滅の機会をうかがいたい。<頼朝の例がある>三成にはそれが救いであった。(中略)頼朝は石橋山でやぶれて身一つで安房にのがれたが、その地の豪族に擁立され、ついに平家をほろぼすことができた。<おれは、死なぬ。>

 結果は家康軍に捕えられ、慶長5年(1600年)10月1日、家康の命により京都・六条河原で斬首された。享年41歳。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
 ともに消えゆく 我が身なりけり」。
磯貝 喜兵衛(元毎日映画社社長)

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