<シネマ・エッセー>残像 

第2次世界大戦の発端となったナチス・ドイツのポーランド侵攻のニュースは1939年9月1日の夜、私が少年時代を過ごした大阪でも、新聞社の号外で報じられました。当時10歳(小学校5年)だった私は「1の日」ごとに近くの通りで開かれる夜店に行っていて、号外が配られていたのを今でも鮮明に覚えています。

ソ連圏とドイツに挟まれた東欧・ポーランドの悲劇はこの日に始まり、1945年5月のドイツ第3帝国の崩壊後も長く続くことになります。アンジェイ・ワイダ監督の遺作となった映画「残像」は大戦後、ソ連の影響下に置かれたポーランドでの一人の芸術家の悲劇を描き、政治の『冷酷さ』に異議を唱え続けるのです。

前衛画家として有名なストウシェミンスキーはポーランド中部の都市、ウッチで、大学教授としても活躍していたのですが、スターリン主義の政権下で、党のプロパガンダに協力しないため大学での職を奪われ、美術館から作品を撤去されたり、展示品が破壊されたり、迫害が日増しにひどくなって行きます。足が不自由なため、松葉杖を突く老画家の生活は悪化の一途を辿ります。画材の調達はおろか、食事すら満足に取れなくなり、日一日と追い詰められてゆく姿を、アンジェイ・ワイダー監督は非情なタッチで描き続けます。

半世紀前にさかのぼるワイダー監督の初期の作品、「地下道」や「灰とダイヤモンド」、近作の「カチンの森」などもそうですが、ロシア圏と西ヨーロッパに挟まれた東欧ポーランドという国の地理的条件から来る悲劇は、それを取り囲む大国のエゴによって生み出されてきたのです。昨秋、90歳で亡くなった同監督は、それに対し一貫して「異議申し立て」を続け、政治の冷酷さへの「怒りと告発」を映像化し続けたのです。

『一人の人間がどのように国家に抵抗するのか。
 表現の自由を得るために、どれだけの代償を払わねばならないのか。
 全体主義のなか、個人はどのような選択を迫られるのか。
 これらの問題は過去のことと思われていましたが、
 今、ふたたびゆっくりと私たちを苦しめ始めています。
—–これらにどのような答えを出すべきか、私たちは既に知っているのです。
 このことを忘れてはなりません。  アンジェイ・ワイダ 2016年、初夏 』

ポーランドと同じように、ハンガリー、チェコ・スロバキャも東西大国の専制に長く苦しめられてきました。私の手元に残っている米誌ライフの特集号には、1956年の「ハンガリー動乱」の生々しい現場写真が記録されていますし、同じ様にソ連軍の戦車によって鎮圧された1968年の「プラハの春」もまだ、記憶に鮮明に残っています。

アンジェイ・ワイダ監督がこの映画の題名を「Afterimage・残像」としたのは、これらの歴史と悲劇をいつまでも消してはならないという強い意志を伝えたかったのだろと思います。大の親日家でもあった同監督の死を悼みつつ。

磯貝 喜兵衛(元毎日映画社社長)

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