東日本大震災から6年、被災地では七回忌の法要が行われている。私が通う石巻市大川地区でも近く集団移転地の第一期土地引き渡しが予定され、仮設住まいに終点が見えてきた。一方かつて住んでいた場所には、巨大防潮堤を築く工事が始まっている。計画高は8.4m。絶え間なく大型ダンプが行き交う。背後に誰も住まない土地を守る防潮堤の建設費用は1工区約500mで20億円を超す。景観も大きく変わる。最近は「本当に必要なのか」という声を頻繁に聞く。なぜこんなことになったのか。防潮堤建設に至る経緯を辿ると、震災復興の合意形成をめぐる問題が見えてくる。
■空白の2年間・3年がかりの合意形成
大川地区は石巻市北部の新北上河口に近い9つの集落から成る。湾口に近い尾崎(おのさき)、長面(ながつら)、釜谷(かまや)、間垣(まがき)の4集落は津波に襲われ、住民の4人に1人以上が犠牲となった。地域は居住できない「災害危険区域」に指定され、住民の多くは約20km内陸に集団移転する。防潮堤は新北上川河口部や太平洋岸のほか内水面・長面浦に面する尾崎・長面両集落に計画された。ほぼ同時期に計画説明を受けた二つの集落は防潮堤に関して、まったく異なる経緯をたどっている。
新北上川湾口の平坦な土地に広大な水田が広がっていた長面地区は、津波と地盤沈下で地域の大部分が水没した。長面の住民に石巻市から防潮堤計画が説明されたのは2012年7月27日。住宅再建などさまざまな案件と一緒に概要の説明を受けた。2013年6月の実施計画説明でも大きな反対がなかったことから、市は「合意」と判断して計画を進めた。次に住民が防潮堤について説明を受けたのは2015年5月12日、着工前の工事計画説明会だった。この時点で住民から「聞いていない」という声が出たが、間もなく工事は始まった。
対岸の尾崎集落への最初の説明は2012年7月26日に行われた。直後から長老漁師が漁業への影響を心配した。9月に漁師宅を訪れた建築学生が防潮堤のシミュレーション図を描いてみせると長老漁師は危機感を募らせ、仲間に呼び掛け、2012年12月「長面浦の復興と漁業を考える会」を結成した。建築家をファシリテーターに招き、地域の将来像を考える会議を十数回開いた。そうしたなかで防潮堤を地盤沈下分(1m)だけ震災前より高くする復旧方法を選び、集落全世帯の合意を取り付けて市に要望書を出した。市は2015年末に当初計画高8.4mから2.61mへの変更を決裁した。
■時とともに変化する住民意思
2年間の空白を経て巨大防潮堤が着工された長面集落と、3年間さまざまな活動を行い計画変更に至った尾崎集落。違いはどのような要因により起こったのか。
尾崎集落は被災前人口189人(58戸)の小集落で、震災時は住民が声を掛け合い背後の山に逃げた。死亡 11人・行方不明 1人の多くは他地域で被害に遭った。家屋は1階天井付近まで浸水したが、流失は免れた。住民の4分の3が一次産業に従事し専業漁家も多い尾崎集落では、震災前から牡蛎漁師が広葉樹林保護に取り組み、地元の小学生や消費地の家族連れらを招いて漁業体験をする活動を行ってきた。こうした交流により震災後も多様な支援者が地域を訪れた。
これに対し長面集落は2000年代に圃場整備が進み、震災時の一次産業専業世帯は4割ほどだった。津波の直撃を受け被災前人口504人(146戸)のうち81人が死亡し22人が行方不明となった。家屋はすべて流失し、防潮堤計画が示された2012年時点では、行方不明者捜索が最優先課題とされていた。新北上川と太平洋に面した海岸、長面浦に続く水路の3辺に矢板が設置され、集落先端部の地面が再び地上に現れたのは2015年夏だった。2015年秋以降は、工事への不安や貿易交渉による農業の先行き不透明感などもあり、防潮堤に対して「本当に必要なのか」という声も出てきた。
■人口減少時代の復興を
これらの経緯から、長面集落では時間の経過とともに被災者の防潮堤に対する態度が変化していることがわかる。また、集落規模が小さく外部専門家による支援もあった尾崎集落では、海を生業の場とする漁師を中心に初期から防潮堤をめぐる話し合いが行われたのに対して、長面集落では「災害危険区域」に指定されることの意味や防潮堤が地域に及ぼす影響について必ずしも十分な理解がないまま計画が進んだこともうかがえる。
震災6年の年度末、被災地では大規模土木工事が進んでいる。こうした工事のうち環境への影響や将来の維持比負担について住民がきちんと理解して合意した事業がどれだけあるだろうか。震災後の混乱のなかで決まった工事計画が、時間とともに住民の意向が変化した後も進み続ける。原資は向こう25年にわたり国民に課税される復興特別税である。人口減少時代の復興とはどうあるべきなのか。七回忌を機に住民意思を汲みもう一度計画を見直すことが必要であると考える。
中島 みゆき(全国紙記者、東京大学大学院生)