■日航は加害者ではなく、被害者だ
拙著のサブタイトル「日本航空はジャンボ機墜落事故の加害者なのか」に違和感を持った方も多いと思う。この私も墜落事故を起こしたのは日航で、日航は加害者だと考えていた。しかし、御巣鷹山のあの墜落事故の詳細を知る、元日航取締役(技術・整備担当)の松尾芳郎氏(93)からファイルを託され取材を進めていくと、その考えが間違っていることに気付かされた。誤解を恐れずに言えば、日航は加害者ではなく、被害者なのである。
拙著の「あとがき」にもこう書いた。
〈私も、松尾芳郎さんを取材するまで日本航空が領収検査やその後の点検・整備でボーイング社の修理ミスやそれによって発生したとみられる亀裂(クラック)を「見逃した」「見落とした」と考えていた。日航の責任は重く、警察や検察の厳しい取り調べを受けるのは、当たり前だと思っていた〉
ここで断っておきたい。松尾氏は「日航が被害者」などとは一言も言っていない。サブタイトルの「日航は加害者なのか」というのは、私が墜落事故をあらためて取材して得た思いである。
序章で書いたように取材を進める中で、疑問が次々と湧いてきた。どうして松尾氏は書類送検されたのか。なぜ警察・検察は刑事立件にこだわったのか。事故調の調査は的確だったのか。企画の(上)と(中)では拙著の文を引用しながらこうした疑問に答えてきた。最後の(下)では「中曽根政権の思惑」について考えたい。
■首相は「三角大福中」の中曽根康弘氏
まず、拙著「2 フラッシュ(速報)」の後半を読んでみよう。
〈当時の首相は中曽根康弘(1918年5月~2019年11月、享年101歳)だった。中曽根は1982(昭和57)年11月から1987(昭和62年)11月にかけ、通算の在職日数が1806日と長期にわたって首相を務めた。(墜落事故直後の1985年8月12日)午後7時47分、その中曽根が静養先の軽井沢から首相公邸に到着する〉
墜落事故が発生したときの首相は、あの「三角大福中」最後の中曽根氏だった。三角大福中とは三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘各氏を指し、いずれも首相を務めた昭和を代表する政治家である。
「2 フラッシュ(速報)」の最後は〈それにしても中曽根の地元、選挙区は群馬である。航空史上最悪の犠牲者を出す日航ジャンボ機墜落事故の悲惨さにもかかわらず、「静岡に落ちたとか、群馬県に落ちたとか」という中曽根の言葉も妙に落ち着ている〉と軽く皮肉った。
「16 社長の辞任」では〈中曽根政権は墜落事故を起こした日航に大きな責任があると判断し、高木の辞任をテコに日航社内の人事を手中に収め、民営化を進めやすくしようと動くようになる。日航は政府から出資を受ける半官半民の特殊法人だった。日航の経営会議で完全民営化の方針が決定されたのが、8月12日だった。奇しくも、この日の夜に墜落事故が起き、520人もの犠牲者を出す〉と書いた。
■風見鶏の才覚と他人の意見を聞かない性格
高木とは墜落事故当時の日本航空の高木養根(たかぎ・やすもと)社長のことで、高木社長は事故直後に社長を辞することを決めていた。高木社長のこの決意を日航の民営化に利用しようとするところなど、「風見鶏」と揶揄される中曽根氏らしさが表れている。なぜなら、風見鶏とは風向き次第ですぐに変わる日和見主義を批判する言葉だが、裏を返せばそのときの状況をいち早く判断して動く能力がなければ風見鶏にはなれない。褒めるわけではないが、中曽根という政治家は周囲の変化を巧みに捉えてそれを利用できる才覚を持ち合わせていたのだと思う。
「16 社長の辞任」の記述をさらに追ってみる。
〈日航ジャンボ機墜落事故から2日後の8月14日午後、高木は首相官邸を訪ねて中曽根に面会し、墜落事故を起こしたことを謝罪し、事故の責任を取って辞任する意向を伝えた。中曽根は事故の責任を厳しく指摘するとともに、逆噴射墜落事故や訪欧の特別機の出発遅れなど日航の安全運航に対する姿勢に強い不満を示し、引責辞任を求めた〉(16 社長の辞任)
〈中曽根は日本航空に責任を取らせ、やっと目途の付いた民営化に拍車をかけてそれを一挙に推し進めようとも考えたはずだ〉(同)
〈案の定、中曽根はお気に入りの鐘紡(カネボウ)の会長、伊藤淳二を次の社長に推した。自分がこうだと判断すると、他人の意見は聞かないのが中曽根という政治家だ。伊藤を推すその力は並大抵のものではなく、高木の後の日航人事を混乱させることになる〉(同)
風見鶏の才覚とは相反するが、中曽根氏は一度自分で決断すると後には引かなかった。
■日米は運命共同体で、首脳はロン・ヤス関係
中曽根氏と言えば、アメリカとの親密な外交を象徴する「ロン・ヤス関係」が有名である。それについて拙著は「20 進言」でこう触れている。
〈墜落事故当時、1945(昭和20)年8月15日の太平洋戦争の終結から40年がたっても、まだ日本はアメリカに完敗したという敗戦色が消えず、日米関係はアメリカ優位の状態が続いていた〉(20 進言)
〈そんななか、政界で頭角を現し、勢いを増していた中曽根康弘が政権を握る。1982(昭和57)年11月27日に第1次中曽根内閣を成立させると、中曽根はアメリカとの関係を重視し、日米関係を揺るぎないものにしようと考えて翌年すぐに渡米、日米首脳会談(1983年1月18日、19日)で「日本とアメリカは運命共同体である」と強調し、強固な日米関係を作り上げていく〉(同)
〈このときの渡米で中曽根は大統領のロナルド・ウィルソン・レーガン(1911年2月6日~2004年6月5日、享年93歳)と会食をする。レーガンが「私をロンと呼んでくれ。あなたをヤスと呼びたい」と語り、それ以来、2人は「ロン」「ヤス」とファースト・ネームから取ったニックネームで呼び合うことになる。首脳同士がニックネームで呼び合うなど日米の歴史の中で初めてのことだった〉(同)
中曽根氏は墜落事故前に首脳同士がニックネームで呼び合う日米関係を築き上げていたのである。
■日米関係がどう影響したのか
墜落事故の処理にこの日米関係がどう影響したのだろうか。拙著を読み進めてみよう。
〈「ロン・ヤス関係」が出来上がった後、1985(昭和60)年8月12日に日航ジャンボ機墜落事故が起きる。日本航空がアメリカを代表する企業であるボーイング社を提訴すれば、中曽根政権が築いた日米関係に大きなひびが入る。中曽根はレーガンと固く結び付いていた。そんな中曽根政権下でボーイング社を相手に訴訟を起こすことなど到底不可能なことだった。結局、日航はボーイング社を提訴することはなかった〉(20 進言)
墜落事故から3カ月後の1985年11月初旬、役員会議の後に松尾は高木社長に面会し、「ボーイングを訴えましょう」と進言している。その進言を聞いた高木社長は黙ってうなずくだけだった。聞き置くといった感じだったという。
〈高木はアメリカとの外交上、日本が不利益にならないように中曽根政権から求められていたのかもしれない。あるいは高木自身が日本の将来をおもんばかったのかもしれない〉(同)。
ボーイング社はアメリカを代表する大企業である。アメリカそのものと言ってもいいだろう。
ところで、航空事故調査委員会と警察・検察の調査や捜査では、ボーイング社の担当者から事情が聴けず、なぜ作業員が修理ミスを犯したのか、どのような過程で修理ミスが起きたかなど修理時の詳しい状況を把握できなかった。米司法省に国際捜査共助を求めたが、アメリカには業務上過失致死傷という罪がなく、結局、検察は対象者全員を不起訴処分として捜査を終了させた。もし中曽根首相が前面に出てロン・ヤス関係を駆使して調整に乗り出していたら米司法省の対応は変わり、ボーイング社の担当者の事情聴取は実現できたかもしれない。政治決断によってこそ、難関を突破して新たな境地に立てるからだ。この場合の新境地とは、日本側が刑事責任の追及を止め、事故原因の究明に的を絞ることを意味する。しかし、残念ながら中曽根政権は動こうとはしなかった。(終わり)
木村良一(ジャーナリスト・作家、元産経新聞論説委員)
<写真>墜落事故の2年前、中曽根康弘首相は別荘でレーガン大統領とその夫人をもてなした。ロン・ヤス関係の象徴的なシーンである=1983年11月11日、東京都日の出町(写真提供・産経新聞)