自著「21世紀の格差」を語る 最終回 ~米国への憧憬、そして財閥解体が残したもの?~

 日本の戦後はアメリカへの憧れから生まれた
 敗戦した日本を統治したGHQはA級戦犯の指名にとどまらず戦争協力者を公職から追放し、新憲法により女性の選挙権を初めて認める総選挙を実施した。女性議員39名を含み、80%が新人議員だった。
 それでうまく行くのか。戦後すぐに再公開された映画の一つが、ニューディール時代の1939年にフランク・キャピラ監督・製作の『スミス都へ行く』という民主主義礼讃映画だ。映画は戦後日本で共感をもって迎えられ、大ヒットした。映画評も「これぞアメリカ民主主義とか、民主主義の何たるかを理解したいのならば、この一本を見逃すな」といったものだ。
 吉田茂が、戦前の昭和が一時的な離脱をしたに過ぎないくらいに考えていたことは確かだろう。ところが、GHQとのやり取りの中で、頭のよい吉田は、大正デモクラシーくらいまで戻るだけでは不十分で、空白期も継ぎ足して考えなくてはいけないことをすぐに悟った。
 戦後がどう生まれ、何をもたらしたのか。日本的経営の基礎が労使協調をベースとした企業組織にあるということに異論は唱える者はほとんどいない。
 ところが、そうした組織の原型はどこに生まれたかという段になると、最近では戦中に生まれてという説が有力になっている。だが、『21世紀の格差』の姿勢は、戦中に生まれた部分もあるが多くは戦後の産物で、一種のハイブリッド、つまり55年体制の経済版、その表れが「春闘」だというものだ。
 考えてみるがよい。戦後のまぶしいようなアメリカは、『アイラブ・ルーシ―』『パパは何でも知っている』『うちのママは世界一』などのテレビドラマの中にあった。これらは、日本でも同時公開され、多くがあこがれを持ってTV,冷蔵庫など電化製品のそろったアメリカの家庭を覗き見た。
 こうしたアメリカへのあこがれが、戦後日本の産業をつくったのだ。家電産業しかり、自動車産業しかり、住宅産業しかりだ。そして自由にうごける自動車、家を持てるという自由、平等意識が民主主義をもたらせたという意味でも日本はアメリカの後を追った。
 ただし、住宅ではアメリカ並みに移動、住み替えるという「慣習」まで真似なかったために、スムーズな労働移動を妨げ、冷戦後の日本企業の競争力の低下と1800万戸を超える空き家を生み出すという負の結果を生んでいる。
 だが、負の結果を生んだのは、日本の当事者の驚愕したラジカルな農地解放をした結果でもある。農地解放は、新憲法の発布、戦後の耐乏生活との原体験とあいまって、小作人たちに天井が突き抜けたような明るさをもたらした。だが同時に土地神話ももたらしたのだ。

  財閥解体のなかったスウェーデン、財閥解体のあった日本
 現代の富豪、ソフトバンクの孫正義が住いとしているのは麻布永坂町にある。その邸宅は三井11家の一つ、三井永坂家の跡地だ。敷地は910坪あり、地下1階、地上3階の建坪は760坪あるが、孫の自慢はアップルのスティーブ・ジョブスやマイクロソフトのビル・ゲーツも愛でたという、岩と水をふんだんにつかって築いた庭だとされる。
 戦前の富豪、三井本家の三井高棟の今井町の居宅は、本宅だけで約1万3,500坪、役宅など周辺地を含めると1万6000坪と東京ドームより広く、そこに建てられた邸宅は、イギリスのエドワード皇太子を迎えて観能会をし、晩餐会をしたという能舞台をもつ、孫正義の居宅を上回る豪壮なものだった。
 高棟は、アメリカ軍の空襲で居宅を焼かれてしまうだろうと、戦後に国宝に指定されるいくつかの構造物を大磯にある別荘の城山に移して終戦を迎えた。高棟は、実務からは引退していたが、終戦の翌々日の8月17日には、三井本社で、戦後の三井の事業のあり方を検討する委員会が開かれた。敗戦は三井が得意とする平和産業へ回帰する機会だと捉えていたのだ。軍部から平和主義者とか親英米とか言われ白眼視されてきたことから、三井の存続に問題はないはずとの認識からであった。
 だが、三井のこうした認識にかかわらず、誰でもが知っているように、GHQは財閥解体をしたのだ。一方、戦勝国であったスウェーデンでは財閥解体はなかった。日本の三井家にも相当するウォーレンバーグ家は、今も、ロボットのABB、通信機のエリクソン、創薬のアストラ=ゼネカなど同国を代表するグローバル企業のオーナーである。
 そして戦前はスウェーデンも、日本も他の国と同じように不平等度の高い国だった。ところが戦後は、財閥解体が行われた日本も、行われなかったスウェーデンも、ともに他国に比して格段に平等度の高い国へと変身した。
ピケティは、フランスでは、81年に社会党と共産党の連合(コアビタシオン)が重要部門の国有化をし、その後民営化を始めたと、素っ気なく述べている。実は、筆者は当時の政策担当者の一人、ベルゴボウア蔵相と面談した事がある。「日本の財閥(解体)に学び、経済民主化と経済成長という果実をとりたい」という話しを彼から聞いたのだ。
 一体、財閥解体とは何だったのだろうか。実は、財閥解体を進めた吉田茂の大磯の邸宅は、国道1号線を挟んで三井高棟の城山荘に対峙して位置する。高棟も晩年はずっと城山荘で暮らしており、(この部分は編集の過程で削除されたが)好んで末娘の末っ子、三井保子の手を引いて散歩し、別荘内の毘沙門天にお参りをした。何を考えていたのだろうか。財閥解体とは何なのだと、まだ何も知らない末孫に問いかけていたのではなかったのか。その三井保子もこのほど亡くなった。
(経済評論家 高橋琢磨)

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