自著を語る「21世紀の格差」~実はトマ・ピケテイ批判の書~

13日金曜日の夜に起こった惨事

死者128人を出したパリ同時テロは、IS(イスラム国)が仕掛けた戦争行為で、起こってはいけないことが起こってしまったのだ。だが、それは拙著『21世紀の格差-こうすれば日本は蘇る』の射程範囲でもあった。
拙著の第4章は、格差問題はグローバル化の結果起こっている事象であり、グローバルな鳥瞰なしに、格差問題を語る資格はないといっている。中東イスラムの若者の失業率が70%を超えているのは異常だ。なぜイスラムだけが屈辱的な状況にあるのか。拙著はフランス国際関係研究所のモイジ特別顧問の中東には色濃く「屈辱」の気分が抱かれており、フランスの「ライシテ(政教分離)」は、第4の宗教になっていると指摘している。
フランス人であるトマ・ピケティの『21世紀の資本』には、グローバルな視点が欠けており、グローバルな格差の発生により、自国の国民に対し迫っている危機に対し何ら示唆を与えなかったのだ。そして、その視点を欠くがゆえに自国の碩学の言をも無視してしまった。
慶應義塾大学の樋口美雄教授は、『エコノミスト』に寄せた『21世紀の格差』の書評の中で、グローバルな視点をもって一つの専門にとらわれない論を展開していると著者のことを取り上げてくださった。しかし、それは、上記のようなグローバルに起こっているグローバル化のメリットを受けた中国、メリットを受けられなかった中東イスラムという対比にまでの言及はなく、ピケティ批判の書として直接とりあげてくださってはいない。
確かに、ピケティが、これまでアンケートでは漏れてしまうトップ1%について納税データから炙り出し、ポール・クルーグマンのような新古典派経済学者をうならせた。だが、問題の核心がトップ1%を形成する企業経営者や金融家・資本家の所得が急速に拡大している欧米に限定してしまったところにピケティの格差論の限界がある。それは、日本では正規労働者・非正規労働者の間の格差が拡大しているところへの言及ができなかった背景だ。
著者のピケティ批判は上記にとどまらない。それは、先進国での労働者の格差を論じるに際して、ピケティが、一見、アメリカの新古典派批判をしているように見えながら、新古典派の目で曇らされた格差論を展開していることだ。
核心に金融のグローバル化の進展がもたらした格差

 1990年の冷戦の終了とともにグローバル化が進展したが、そのグローバル化をリードしたのがIT技術であり、金融だ。この二つが世界での格差形成を促したのだ。グローバル化はしばしばアメリカ化だともいわれるが、IT技術、金融の「捷」を握っているのもアメリカだ。
 投資が自由に行えれば、人件費の安い中国のような新興国でモノをつくり儲けることができる。貿易がグローバルに可能になれば、中国から安いモノを輸入することができる。すると、先進国では今まで国内あった工場が閉鎖され、中国に移る。ITの発達によって製品の作り方が違うようになり、またまとまったソフトの作成などが、昔ならば、中国やインドなどにいくはずがないと考えられたそんな仕事が移っていってしまったのだ。
そこでは、中国でも調達できるような労働に対する需要が減り、賃金の下落が起こる。経済学的にいえば、直接投資や貿易によって賃金率の「裁定」が行われるのだ。
だが、アメリカの新古典派経済学では、このことへの言及はタブー視されてきた。では、その主流である経済学は何といっていたかといえばITなど技術の進歩に労働者が追い付いていないためだというものだ。つまり、グローバル化すれば高度な仕事へ労働需要が移るが、それへの準備ができていなかったということになる。悪いのは準備ができていなかった労働者にあり、賃金が下がるのは当然の報いだという理屈になる。
 一方、「おカネ」はどこへでも展開でき、投資できる。アメリカの会社に投資しなければならないという制約はなく、世界の起こるあらゆる裁定機会を活用できる。つまり、金融はグローバル化の頂点に立つ。それがトップ1%の世界を形成する人たちの核にある。
金融・グローバル化への批判はタブーだった。だから、新古典派経済学でも格差を生んでいるのは教育格差に尽きるとお茶を濁していた。
 だが、ピケティも、トップ1%を炙り出したという成果に目を奪われ、格差の発生が金融のグローバル化によって起こっているという大きな掴みどころを掴んでいないのだ。リーマンショックが起こり、金融・グローバルへのタブーが亡くなった。にも関わらず、ピケティは、その他大勢の格差は教育格差で起こっていると新古典派をなぞるという怠慢を冒している。

金融への「えこ贔屓」是正としての資本課税

 樋口教授は、著者が消費税の増税よりも「資本課税」だといっていると紹介している。その意味では、ピケティの「資本課税」への単純な賛成だとみらる。だが、著者は、グローバル化という「仕組み」が金融というものに有利になるようにしか設計できない、だからその有利な設計を再設計する手段として「資本課税」をいっているのだ。この点がピケティと違うといえるのではないか。
高橋琢磨(元野村総研主任研究員)

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