「MERS(マーズ)」 これこそ知識を持って正しく怖がれ

 飲食店での豚の生レバーの提供が、6月12日から禁止された。この日、テレビのニュース番組は「今日から提供禁止」と放映し、最後の豚のレバ刺しを食べようとする客でにぎわう前夜の居酒屋の様子も流していた。
 居酒屋が普段の倍の生レバーを用意すると、それに応えるかのように常連客が「牛の生レバーが禁止されてから豚の生レバーを食べるようになりました。これから豚も食べられなくなって残念です」とコメントしていた。
 ここでまずひとこと言わせていただく。豚肉は生では食べない。これが常識だ。食中毒を引き起こすサルモネラ菌などの細菌が付着し、命取りになるE型肝炎ウイルスや寄生虫にも汚染されている危険がある。食べた本人だけでなく、家族にも感染する可能性が否定できない。
 それにもかかわらず一部の飲食店では3年前の集団食中毒事件をきっかけに牛の生レバーの提供が禁止されたあと、代替品として豚の生レバーを出すようになった。厚生労働省によると、そうした飲食店はおととし7月の時点で全国に190カ所にも上った。
 厚労省は生の豚肉を食べることは想定外だったため、法的に規制してこなかった。ところが豚のレバ刺しを出すような非常識な飲食店が増えてきた。そこで今回、食品衛生法の規格基準を改正し、中心部まで加熱することを罰則付きで義務付けたわけだ。
 「最後の豚のレバ刺し」などと提供する飲食店も問題だし、それを喜んで食べる客も客だ。報じたテレビもどこかおかしい。「豚はよく火を通さないと危ない」という基本的な知識がないからこうした事態になるのである。
 さて本題の中東呼吸器症候群のMERS(マーズ)の話に入ろう。お隣の韓国でアウトブレイク(流行)して経済や外交にまで大きく影響し、朴槿恵(パク・クネ)大統領自身が「国家的困難」と拡大防止に苦戦しているが、このMERSは2012年に中東で見つかった新しい感染症だ。
 12年前に中国や東南アジアの国々で流行した新型肺炎のSARS(サーズ)のウイルスと同じ仲間のコロナウイルスが、このMERSの正体だ。感染者の咳やくしゃみの飛沫に含まれるウイルスを吸い込んだりして感染し、かぜと似た症状が出る。肺炎を引き起こして死亡することもある。糖尿病や呼吸器疾患などの持病がある人は重症化する危険性が高い。ワクチンや治療薬はないが、感染力はインフルエンザより弱いようだ。
 
 韓国では中東から5月4日に帰国した68歳の男性から感染が広がり、10カ所ほどの病院に次々と感染が拡大していった。感染者は200人に迫る勢いで増え、このうち死者は約30人となっている。なぜこれほどまでに感染が広がったのだろうか。
 韓国で感染の実態を韓国政府とともに調査したWHO(世界保健機関)のケイジ・フクダ事務局長補は6月13日の記者会見で、韓国の医療スタッフがMERSそのものに不慣れだったことを挙げ、「患者に呼吸器疾患の症状が出ていてもMERSを疑わなかった」と述べている。MERSの知識が欠如して患者の感染を見逃し、隔離措置に結び付かなかった。
 さらに韓国とWHOの調査団によると、韓国政府が初動段階で情報公開を怠り、感染地域や医療機関名を公表しなかったことや、中央政府と地方自治体との連携不足、患者がいくつもの病院を受診したりする韓国の習慣などが感染拡大に拍車を掛けたという。
 問題はこのMERSが日本国内に入ってきたとき、パニックを起こさず冷静に感染拡大を食い止めることができるかだ。
 たとえばSARSの院内感染で感染者が次々と死亡したベトナムは、感染症対策の知識を持った先進国の支援を受けながら患者の隔離と情報公開を徹底して行い、SARSの制圧に成功した。
 このSARSは結局、日本には入ってこなかったが、2003年5月、感染した台湾人医師が関西を観光旅行したことが発覚し、政府と自治体、自治体と自治体の連携がうまく機能せず、対応が遅れて混乱した経緯がある。
 2009年の新型インフルエンザのパンデミック(世界的大流行)では当初、厚労省は空港や港での旅行者に対する検疫を強化し、ウイルスの侵入を水際で食い止める対策に力を入れた。しかし水際対策で使われる人材や予算には限りがあり、それらを国内での感染拡大防止策に回すタイミングを見極めるのが難しかった。  MERSにどう向き合うか。行政は韓国の流行を対岸の火事とせず、SARSや新型インフルエンザなど過去の感染症対策の反省点も生かす。国民も「生の豚肉は食べてはいけない」といったような常識をあらためて認識し、正しい知識を持って冷静に対応していく。これらが何よりも大切である。

木村良一
産経新聞論説委員 

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