科学記者養成の問題点「良い記者自然発生説」の経営者たち

私の持論は「良い記者自然発生説」。「良い科学記者というものは、放っておけば組織内に自然発生する(例えば庭の空き缶にボウフラが自然に涌くように)」という説である。
そんなばかな、と思われるかもしれないが、新聞、テレビを問わず、メディア企業の経営者たちは、この「良い記者自然発生説」を信じていると考えざるを得ない行動をとっている。医療、原発・環境問題など科学知識を必要とする重要ニュースが増え続けているのに、その伝え手である科学記者の育成は、基本的にOn the Job Training。要するに系統的でない“徒弟制度”で行われているのが現状だからだ。記者たちは基本的に自分で勉強するか、その時々先輩や取材先に教えてもらいながら成長していく。おそらく記者の育成なんてそれで十分と経営者たちは考えているのだろう。育成方法を改めようという組織的な動きはない。
1987年のことだった。私はNHK報道局の記者として「遺伝子診断の最前線」というリポートをした。遺伝子診断技術の急速な進歩で、診断できる病気の数が増え、絨毛診断という新技術の登場で妊娠9週という早い段階で胎児の遺伝子異常が診断できるようになったという内容だった。放送後しばらくして、私は先輩から「キミのリポートが問題になってるらしいね」と言われた。デスクに聞いてみると、放送後、障害者団体から質問状と抗議文が来たという。「放送は遺伝子診断の良い面ばかりを強調し、遺伝子による障害者差別を助長する」という趣旨であった。
入社7年目で経験が不十分だった私は、自分の放送のどこが問題だったのかがよくわからなかった。そこで、その団体に電話をかけたところ、きょうは埼玉で役員会があるのでそこに来たら?と勧められ、そのまま参加することにした。脳性まひの人たちでつくる「青い芝の会」だった。彼らは「出生前診断が社会に広く普及すると、既に生まれた先天異常児や障害者が『間違って生まれた存在』と受け取られ、差別の助長につながる」という強い危惧を抱いていた。確かに少子化が進む中で「完璧な子どもが欲しい」という社会の風潮が広がっている。そんな状況で、テレビが「遺伝子診断と出生前診断の技術が進歩している」と医学的事実を単に伝えただけでは、視聴者が「障害児を生まなくて済む便利な技術が登場した」と受け止めてしまう危険性は高い。科学的に正確な報道をすればいいと考えていた自分の浅はかさに、私は頭を抱えてしまった。青い芝の会の人たちは、「まあ、ここまで来て話を聞いてくれたんだし、この記者さんをいじめてもいいことはないから。これからいい報道をしてください」と最後は笑顔で送り出してくれた。
そこから私の猛勉強と再取材が始まった。出生前診断をめぐる社会の動きや、行政と障害者団体の対立の歴史について資料を読み漁った。また出生前診断を受けた多数のカップルに取材し、出生前診断に関わる医師と障害児の療育に携わる医師からも話を聞いた。
その勉強と取材が、1992年「あなたは生命(いのち)を選べますか~ここまできた胎児診断~」という45分間のドキュメンタリー番組に結実した。番組には、出生前診断でダウン症と判明したのに出産を選んだお母さんや、筋ジストロフィーの中学生の双子とよく話し合った末、出生前診断を受けることを決心したお母さんなどが登場する。アメリカで出生前診断の普及とともに広がった遺伝カウンセラー制度なども紹介し、社会的偏見や差別と深いつながりを持つこの医療技術が、社会のなかでどう論議されるべきかを伝えた。
 おそらくNHKにもそれ以前に出生前診断をめぐってさまざまな報道があったはずで、そのつど記者やディレクターたちが自分でその倫理的・科学的背景について勉強したはずである。ところがその成果を、地方局から東京に上がってきたばかりの記者(私)が学ぶシステムはなかった。その結果が「医学的には正しいが見識が足りないリポート」になってしまったのだ。その失敗を自分の番組で取り返すまで5年かかった。おそらく同じように若い記者がいまの生殖医療を取材すれば、背景の知識を欠いた状態での報道が行われることになるだろう。誤解を恐れずにいえば「科学報道の現場は、常に経験不足」なのである。それは記者教育が古い“徒弟制度”のままであることと、1,2年ごとの担当替え、数年ごとに転勤で人が入れ替わる人事システムを、科学記者にも適用しているからに他ならない。
 メディア企業の経営者の皆さんにぜひ申し上げたい。「良い記者自然発生説」を皆さんが信じているという私の指摘が間違いであるならば、ただちに、良い記者を系統的に育てるための社内カリキュラムの整備と、人事システムの変更に取り組んでいただきたい。良い科学記者の育成を、取材先に任せておいてはいけないのではということを、自らの反省を込めてぜひお伝えしたい。
隈本邦彦 (江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授 )

Authors

*

Top