エッセイ 東京マラソン奮戦記

当選した
もう3月、春ですね。日差しも暖かくなってきました。うれしいですね。お変わりありませんか。さて2月22日の日曜日、僕はランナー憧れの東京マラソンを走ってきました。今シーズン2回目のマラソン・レポートです。

東京マラソンは市民ランナーも参加できる日本最大のマラソンレースです。36000人が都心を駆け抜けます。応募は30万人以上、当選の倍率は10倍を超えます。実は僕は6年前の第3回を走りました。当時はこれほどのマラソンブームではなかったので、当選しても棄権する人が結構いたのでしょう、僕は繰り上げ当選で走れました。

それ以降も毎回応募しているのですが、結果を知らせるメールはいつも「落選」です。僕は東京マラソンを走る機会はもうないだろうと諦めていました。ところが今回は見事に当たりました。「70歳」ということで誰かがお祝いをしてくれたのでしょうか。当選メールが来たときは本当に飛び上がりました。

それなのに、です。当日の天気予報はレース中「雨」です。この時期、雨の中を走るのはつらい、僕のような鈍足ランナーは体が冷え切ってしまいます。防寒対策をどうするか、いろいろ考えました。まずは濡れても暖かさを保つメリノウール製のスポーツ腹巻の着用です。手先から冷えるので、手袋の下には台所用の使い捨て手袋をすることにしました。それに首周りには家人がプレゼントしてくれた緑と赤のちょっとおしゃれなネックウォーマー。ゼッケンをつけるナイキのTシャツの下は結局、アンダーアーマーのトレーニングスーツを着ることにしました。息子たちが古希の祝いに買ってくれたものです。さらに頭と腕の部分だけがくり抜かれた透明ビニール製のポンチョ。雨を防ぐだけでなく、防寒対策です。せっかくの東京マラソンですから、本当はすっきりした、さわやかなウエアで走りたかったのですが、仕方ありません。

さて当日、朝5時半起床。朝食はいつものレース日と同じようにチーズをのせ海苔を巻いた焼き餅を4個。それに昨日の夕食の残りのブロッコリーのサラダと紅茶です。デザートにリンゴ2切れ食べました。着替えをして荷物を入れたデイバックを背負い、7時前に家人を起こさぬよう静かに、しかし気合を入れて出発しました。

会場の都庁周辺はもうランナーが一杯です。今年からテロ対策で警備が厳重になり、手荷物検査が行われる入場ゲート前には、長い列ができました。ゲートを通って、デイバックをゴール地点の東京ビッグサイトに運んでもらうため、指定されたトラックに預けます。これで準備完了、スタートエリアに並びました。

嬉しいことにわずかに降っていた雨もスタート前には上がりました。9:05、まず車椅子マラソンがスタートしました。いよいよ、です。いつものことですが、ワクワクしてきます。
こんな歳になって、まるで子供に戻ったような気になります。マイクの声が「スタート3分前」。それまで大音響で流されていた音楽も止み、シーンとなります。頭上高く飛んでいる何機もの報道陣のヘリコプターの爆音だけが響きます。9:10、「パーン」。ピストル音がマイクを通じて聞こえてきました。スタートです。どっと挙がる喚声、そして拍手。「ドーン、ドーン」。花火が何発か打ち上げられました。「よし、行くぞ」。気合をまた入れました。

36000人がスタート
でも36、000人のランナーです。都庁玄関前の正式なスタートラインにたどり着くまでにしばらくかかります。歩いたり、ゆっくり走ったり。先頭にいたプロを含むエリートランナーが走り出してから10分以上たって、後ろのほうに並んでいた僕はようやくスタートラインを越えました。「行くぞ!」。誰にと言うこともなく、僕は大声を挙げました。

コースの両側の歩道、横断歩道橋は応援の人たちで一杯です。あちこちから大きな声が飛んできます。都庁をスタートしてすぐ、新宿西口の大ガードに差し掛かります。そのガードが黄、赤、白など色とりどりのウエアを着たランナーで埋め尽くされています。ガードの上には中央線や山手線が走っている。こんな光景はこの日しか見られません。見ただけでアドレナリンがどっと出てくるような気がします。

GPS機能付きのランニングウオッチが振動しました。1キロ通過の信号です。表示を見ると何と1キロ5分25秒のペース。速すぎます。スタートしてからしばらくはほとんどのランナーがペースを上げ過ぎてしまいます。やはり興奮しているからでしょう。それに誰もが引っ張られてしまう。流れに乗ってしまうと、自分のペースで走れません。いけない、いけない。ペースを落とそうと思いながら、走っていきました。

新宿・花園神社を越えて間もなく、緩やかな下り坂が始まります。東京マラソンのコースはほとんどフラットですが、ここだけは飯田橋あたりまで続く長い、長い坂です。手をダラーンと下げ、歩幅を縮めてチョコチョコ走ります。いわゆる「ペンギン走り」です。下り坂はこういう走り方が「膝に負担がかからない」。有名なランニング・コーチの金哲彦さんがTVでそう言っていました。

曙橋を越え、防衛省正門に差し掛かると、音楽隊が演奏をしていました。それを横目にしながら走っていると、後ろからスペイン語の会話が聞こえてきました。スペイン、あるいは南米からのランナーでしょうか。二人の外国人ランナーが僕を追い抜いていきました。

それにしても東京マラソンもすっかり国際的になりました。前回走った時には外国人ランナーはあまりいませんでした。今回の参加は約5、000人だそうです。走っていると、Tシャツの背中に国名を書いたランナーが目につきます。一番目立ったのは、春節の時期だからでしょう、台湾からのランナーでした。遠いところからではサウスアフリカ、ノルウエー。傘の絵を描いた香港からのランナーもいました。雨傘革命の集会に参加したのでしょうか。

ペースは6分前後、快調ですが速すぎます。必ず後半に付けが回ってきますから落とさなくてはいけないのですが、不思議なものでなかなか落とせません。ようやく長い下り坂が終わり、飯田橋駅前の交差点を大きく右へ曲がりました。

竹橋が近づいて、左にカーブします。その時でした。若い女性が歩道で大きな韓国旗を振っていました。韓国からのランナーを応援しているのでしょう。今、日本の中で韓国の旗をこんなに自由に、こんなに思い切り振れる場所は、東京マラソンくらいしかないでしょう。僕はその前を駆け抜けながら、思わず拍手しました。彼女も笑いながら手を振っていました。

皇居前広場に差し掛かったときです。「平成27年2月28日定年、遠軽自衛隊」。そんな 布を背中に貼ったランナーが目の前を走っていました。追いついた僕は「定年ですか?」と声をかけました。実は「遠軽」とはどこか知らなかったのですが、北海道・網走近くだそうです。彼はそこの陸上自衛隊員だったのです。多分、東日本大震災の折には東北の救助活動にも派遣されたのでしょう。いかにも誠実そうなランナーでした。「ご苦労様でした」。そう言って彼を追い抜いていきました。歩道では皇宮音楽隊が「アンパンマンのマーチ」を演奏していました。

ちょっと早すぎたかな
祝田橋交差点を左折し、日比谷の交差点を右に曲がります。ここでスタート地点の都庁からちょうど10キロ。10キロマラソンはゴールです。フルマラソン組はここから品川までまっすぐ走り、折り返してくるのですが、片側車線はもう折り返してきた速いランナーが銀座に向かっています。10キロの僕のタイムは1時間5分くらい。ちょっと速すぎるかな。

こースの右側は日比谷公園です。この辺りはとても懐かしい場所です。実は僕が勤務した通信社の本社が日比谷公園の新橋寄りにある日比谷公会堂、正確にいうと公会堂と一体になっている市政会館の中にありました。昭和の初めに建設されたレンガ造りのこの建物の前を、就職した当時は都電が走っていました。あの頃、大人の世界に入っていくことになぜか抵抗のあった僕は、「これからやっていけるのだろうか」。3階にあった編集局の窓から都電が走っていくのを見下ろしながら、そんなことを考えていました。遠い昔です。

「土肥さ~ん」。突然、歩道から大きな応援の声が聞こえてきました。僕が参加しているジョギングクラブ、IJCのメンバーです。抽選に外れた人たち10人近くが応援に来てくれていたのです。本当にうれしい!思わずハイタッチです。応援とは何と人を励ましてくれるのでしょう。「その調子」「頑張って」。そんな声に背中を押され、僕は手を振りながら「有難う!」と大きな声で叫びました。

東京タワーを眺め、品川を折り返した時です。「お父さん」と大声で呼びかけられました。歩道にいた50代の女性です。年寄りが走っているのを見て、声をかけずにいられなかったに違いありません、「頑張って!」。本当は「おじいさん」と言いたかったのでしょうが、遠慮したのでしょう。僕は笑顔で応えました。

帝国ホテル前でIJCメンバーがまた応援してくれました。その先を右に曲がると、マンダリンホテルを越えたところが中間点です。タイムは2時間22分。13キロ地点でポンチョを脱ぎ、ペースをようやく落とせたので、いつものレースとほぼ同じ時間で通過しました。さあ、晴海通りのJRのガードをくぐると、いよいよ銀座です。

ソニービル前を越え、4丁目角を左折するのですが、銀座中心部はもう最高です。中央通りの片側は浅草・雷門に向かうランナー、逆側は雷門で折り返してきたランナーで一杯。両側の歩道はもちろん鈴なりの人、人、人です。あちこちから飛ぶ応援の声、振られる手、励ます音楽。自分がどこかの大舞台に立ったような気になります。

日本橋手前の22キロ給水所では給食がありました。チョコパン、バナナ、プチトマト。エネルギー補給です。自分でもウエストポーチの中にエネルギージェルを持っているのですが、何せ5時間は走るのです。早速頂戴し、走りながら食べました。

でも元気が良かったのはそのあたりまででした。25キロ地点が近づくころには、足が動かなくなってきました。ペースが速すぎたのかもしれません。完走できるだろうか。だんだん不安になってきました。不思議なもので、人間、気力が萎えてくると体力が続かなくなります。気力さえあれば、体力は持ちます。そこで完走のための作戦を考えました。いかに自分を誤魔化して、気力を持続させるかです。

その作戦とは5キロごとに1分歩く、です。つまりあと17キロと考えると気力が続かない。そこでもっと手前の5キロを目標にする。それだったら何とかできるだろう。で、5キロ進めたら、休憩するように1分歩き、また次の5キロを目標にする。それを繰り返していけばゴールできるだろう、というものでした。

記録はめざさず
もうタイムは気にしないことにしました。ウオッチが振動でペースを教えても、盤面は見ない。そんなことより5キロ先まで行く。そう考えて雷門先の30キロ地点を目指しました。すると何とか走れました。あっ、雷門だ!おなじみの大きな提灯が見えてきました。そこをUターンするように折り返します。頭を雲の中に隠したスカイツリーがすぐ近くに立っていました。間もなく30キロを通過しました。よし、あと12キロ!1分歩いてまたゆっくり走り出しました。

気分の問題でしょうか、その後は結構ペースが上がってきました。浅草橋から日本橋、そして銀座に戻り、4丁目の角を今度は築地方面に曲がります。歌舞伎座前ではドーランを塗り、舞台衣装のままの役者が両手を大きく振って応援してくれていました。「有難う!」。そう叫びながら走っていくと、間もなく35キロの築地本願寺でした。作戦通り、歩くつもりだったのですが、まずまずの調子です。これならもっと行っちゃおうか。そう思って休まなかったのが大間違いでした。

そのすぐ先に佃大橋が見えてくると、とうとう気力が付きました。あれを上るのか、勘弁してくれよ。何しろ大橋は小山のように見えます。とても走れません。とぼとぼ歩いて登っていきました。その後はずっと歩いたままです。38キロ当たりでまたIJCメンバーが応援してくれていました。近くまで行ってハイタッチしたかったのですが、そんな気力も出ません。申し訳ないけれど軽く手だけ振って、前に進みました。後わずかだ!頭にあるのはそれだけです。よっぽど前に倒れるような格好で歩いていたのでしょう、「オジーサーン、もっと体を起こして、起こして。頑張れ~!」。そんな応援が歩道から聞こえてきました。

ゴールの東京ビッグサイトまで残り1キロ地点あたりでした。僕の横を30歳台くらいの足の長い女性が追い抜いていきました。追い抜く際、僕のほうを見ると、軽く会釈をしながらニッコリ笑いました。僕もお返しに手を振りました。そうか、彼女は爺さんがヨタヨタ歩いているのを見て、もうすぐだから頑張ってください、と応援してくれたんだ。僕にはそう思えました。すると、よしっ、最後まで走ろう!という気力が湧いてきました。走ると言っても、傍から見れば歩いているのと変わらなかったかもしれません。でも走りました。

最後の信号を右へ曲がるとすぐに「LAST195M」と書かれたゲートです。それを抜けるといよいよゴールゲートでした。ついにゴールです。「やったー!」。両手を突き上げて、ゲートを駆け抜けました。タイムは5時間27分54秒。6年前の記録は4時間29分52秒です。ほぼ1時間遅くなっていました。でもゴールできたのですから上出来です。最高!

今回もまたまた長いレポートになってしまいました。でも最後にもう一つだけ書かせてください。エイド・ステーションで給水してくれたり、ゴール後に記念メダルを首にかけてくれたり、あるいはビッグサイトで荷物を運んでくれたボランティアのことです。彼ら、彼女らの応援、笑顔がどれだけ素晴らしかったか、どれだけランナーを励ましてくれたか。とにかく感謝、感謝です。彼らによって大会がより素晴らしいものになりました。

終わりまで読んで頂き、有難うございました。またお会いしましょう、また飲みましょう。ではお体に気をつけて!

  青春や春の東京駆け抜けり

土肥 一忠
元時事通信記者  

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