♢イギリスに広がる「アドレセンス現象」
イングランド北部の小さな街。閑静な住宅地の一軒家に、次々と警察車両が到着する。銃で武装した警官が押し入り、慌ただしく2階の子ども部屋へ。向けられた銃の先には、13歳のあどけない少年ジェイミー・ミラーがいる。「パパ、僕は何もしてない」。ベッドの上で怯えて叫ぶ彼を、警察は殺人の容疑で逮捕するというのだ。
『アドレセンス』(思春期)というNetflixドラマは、1話およそ1時間の4話で構成される。物語は、ジェイミーが同じ学校に通う女子生徒のケイティを殺した容疑で逮捕される鮮烈なシーンで始まり、主人公と家族、同級生、警察、心理療法士などの視点を通して事件の背景を丁寧に描く。
Netflixによると、この作品は配信開始から2週間で史上最多の視聴回数(6,630万回)を記録した。国も動いた。スターマー首相は制作チームと面会し、思春期の子どもたちの保護について協議。イギリス国内では、全ての中学校でこの作品が観られるようになる。また、現在ロンドンの大学院に通う筆者の同級生たちは、この作品について語るpodcastを制作。「アドレセンス現象」は、イギリスを席巻している。
♢若年層に広がる分断と「男性らしさ」の罠
共同制作者のひとり、スティーヴン・グレアムは、実際の少年事件から着想を得たとNetflixの公式サイトで語る。「衝撃を受けました。いったい何が起きているんだ?どうして少年が少女を刺し殺すような社会になってしまったんだ?と」。確かに、イギリスではしばしば少年が少女を殺傷する事件が起こる。昨年には、サウスポートで17歳の少年が6歳から9歳の少女3人をナイフで刺殺する事件があった。
『アドレセンス』は、事件の背景としてネット空間に広がる男性視点の有害なジェンダー観の影響を描く。作中では、20%の男性が80%の女性を魅了し、80%の男性には女性が「当てがわれない」という「80対20の法則」を何人もの生徒が引き合いに出し、ネット上の言説の浸透を示す。こうした男性視点の言説が溢れるネット上の空間は「マノスフィア(man=男とsphere=領域からなる造語)」と呼ばれ、国連は「狭義で攻撃的な男性らしさを推し進め、フェミニズムやジェンダー平等は男性の権利を犠牲にして成立するという誤ったナラティブを広めるオンラインコミュニティの総称」と定義する。これは、しばしば女性をモノのように扱うなど、ミソジニー(女性嫌悪)を伴うことで知られる。ジェイミーは同級生から「インセル(involuntary celibate=不本意の独身者)」と呼ばれていて、これもマノスフィアで「非モテ」を示す用語だ。
データは、実社会における「Z世代(主に10代・20代)の男女の分断」も示す。ことし3月に発表された世論調査会社「イプソス」などの調査によると、世界30カ国のZ世代男性の約6割(57%)が、「行き過ぎた平等で男性が差別されている」と回答した。同世代でこれに同意する女性は36%にとどまる。調査を受け、キングス・カレッジ・ロンドンの専門家は、男女平等がメディアや政治家によって「ゼロサムゲーム」的な言説で語られやすいことを批判し、「平等がすべての人に利益をもたらすという考えを強化することが不可欠だ」と述べる。
♢「幸せそうな女性を殺したかった」日本でも可視化されるミソジニー(女性嫌悪)
2021年8月、都内を走行中の小田急線の車内で乗客が次々に切りつけられてけがをした事件で、逮捕された当時36歳の男の「幸せそうな女性を殺したかった」という言葉がテレビや新聞の見出しに踊った。その後の毎日新聞の取材によると、男は「自分は『貧乏くじ』を引いていると考え、幸せそうな女性に敵意を抱き、女性を標的にした無差別殺人を思いついた」といい、刃物で襲われた4人のうち3人は女性だった。メディアで報じられる事件だけではない。SNSでは、人混みでわざと肩やカバンなどをぶつける「ぶつかりおじさん」の被害に遭ったという女性の声が相次ぎ、日常に潜む危険も垣間見える。ネット上でも、「弱者男性」や「チー牛」など、容姿や経済力、コミュニケーション能力などが原因となり、恋愛市場で不利な立場に置かれる「非モテ」男性を表すスラングは多い。「女尊男卑」などを主張するマノスフィアも広がる。ジェンダー平等先進国とは言い難い日本でも、イギリスと同じ問題の片鱗が見える。日本からも、「ジェイミー」は生まれるかもしれない。
ジェイミーは、どこにでもいる少年だ。仕事熱心な父親と子ども思いの母親に育てられ、家庭環境も悪くない。だからこそ、視聴者はうっすらと「この事件は我が家でも起こりうる」という絶望感を抱く。この問題に、どう向き合えばいいのか。共同制作者グレアムは、一つの提案をしている。「なにより、親子の間に会話を生み出すことです」。スマホやパソコンの画面を見るばかりではなく、もっと目を見て大切な人と話すこと。解決の糸口は、意外とシンプルなことなのかもしれない。
神谷美紀(元東海テレビ記者)