シリーズ ラジオ100年 Ⅱ ラジオ賛歌

▼身近にあった放送局
 郷里・広島県の尾道市には、かつてNHKの放送局がありました。幼いころ、実家の2階の物干し場に上がって、背後にある千光寺山(標高144.2m)を見上げると、山頂付近に放送用アンテナの鉄塔(高さ55m)が2基、少し間隔を置いて並んでいるのが見えました。それがNHK尾道放送局でした。
 NHK尾道放送局は、1941年に開局。最初はラジオ放送、1960年3月からはテレビ放送を開始しました。NHKの2基の鉄塔は港町尾道の風景にすっかり溶け込み、鉄塔のない千光寺山なんて想像できないくらいでした。
 しかし残念なことに、NHK尾道放送局は、経済発展著しい隣の福山市に移転することになり、1967年3月に閉局しました。当時、私を含め尾道市民がどんなに悲しんだことか、千光寺山のシンボル的な存在だったNHKの鉄塔が消えてしまったのですから当然です。あの鉄塔を見ながら育った私が、大学を出てNHKに入ったのは自然の成り行きだったのかも知れません。

▼プロ野球のラジオ中継
 私は、幼いころからプロ野球広島カープのファンです。小学生のころ、父に連れられて当時の広島市民球場にカープの試合をよく観に行きました。尾道の地元新聞がプロ野球観戦ツアーを組み、尾道から広島まで団体バスで約2時間かけてカープの応援に出かけていたのです。王、長島を擁する人気球団・巨人と対戦する日には、広島市民球場は異様な熱気に包まれ、ビールが飛ぶように売れていました。当時、ビールは瓶ごと売っていたので、カープが負けた時には、怒ったファンがビール瓶を次々とグラウンドに投げ込み危険極まりない状況でした。あの頃の市民球場は、本当にマナーの悪いファンが多かったと記憶しています。私たちが乗ってきた団体バスは、尾道まで帰る時間を考慮して午後9時には球場を後にする決まりがありました。当時のナイターは午後7時開始で、試合時間が2時間を超えることも多く、試合途中で泣く泣く球場を後にし、車中で試合経過をラジオで聴きながら帰ったものです。それでプロ野球のラジオ中継を聴くことが若いころの習慣になりました。

▼現役合格はラジオ講座のおかげ
 大学受験のころは、ラジオの受験講座に随分お世話になりました。私は受験科目を絞って短期間で高得点を狙う私立型だったので、当時、地方でも短波放送で聴くことができた旺文社の「百万人の英語」と大学受験ラジオ講座を活用しました。このうち大学受験講座は、主要科目ごとに大学教授や有名な予備校の講師が担当していて、単に知識を教えるだけでなく受験生の気持ちに寄り添って人生のアドバイスをしてくれることもあり、受験生の心の支えにもなっていました。当時は雑音もひどく音声が聞こえなくなることもしばしばありましたが、高校の授業以上に熱心に聴きました。地方の高校生が、全国レベルで受験生が集まる東京の大学に現役合格できたのはラジオ講座のおかげだと思っています。大学受験ラジオ講座は教育の地域格差の解消が狙いだったということで、今のようにネット配信や衛星中継の授業がない時代にはラジオは重要な学習ツールだったのです。

▼初の全国中継はラジオで
 NHKには記者として採用され、最初の勤務地は大阪でした。事件記者として鍛えられて2年目の1975年3月11日、放送局内で泊まり勤務をした翌朝6時半ごろ、西成区のあいりん地区で火事という情報が入り、カメラマンと局車で現地に向かいました。高速道路を走っている途中にも遠方に立ち上る煙が見え、相当大きな火事だと確信しました。
 火災現場は、日雇い労働者が多く住むいわゆるドヤ街の一角にある簡易宿泊所で、1階の客室から出火して燃え広がり、7階建ての建物が全焼し、宿泊していた約180人のうち4人が死亡、61人が重軽傷を負う大惨事になりました。 
 現場に到着して、警察や消防から取材をしているうちに朝のラジオのニュース番組で現場中継することが決まりました。
 現場のあいりん地区は、私が事件記者としてスタートした最初の持ち場で、いわゆる土地勘があり、簡易宿泊所の構造も熟知していました。それが現場からのリポートに厚みを加えることになります。
 火事のあった宿泊所の窓は、宿泊者が寝具などを無断で持ち出さないように開口部がすべて金網で覆われており、これが宿泊者の避難や消防隊の進入の妨げになったという問題点をいち早く指摘したのです。警察の電話を借り、全国のラジオリスナーに向けて火災現場の様子を生々しく話しました。これが私の全国中継デビューでした。
 NHK在職時代、テレビやラジオで何度も現場からリポートする機会がありました。私は、決められた時間内に話をまとめなければならないテレビより、たっぷり時間をかけて話ができるラジオの方が好きでした。
 そのラジオが今、進化しています。インターネット配信で、地域や時間を超えて聴けるようになったのです。ラジオは、“オールドメディア”の中で、スマホでも車の中でも「ながら聴き」ができるメディアとして、意外としぶとく生き延びるのではないか、そう思うようになりました。

山形良樹(元NHK記者)
(注)冒頭の写真は、かつてNHK尾道放送局があった千光寺山

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