シリーズ ラジオ100年  1 放送記者の誕生

 

 東京・芝浦。JR田町駅のほぼ線路際にひっそりと「放送記念碑」が建っている。説明によると「大正14年(1925年)3月22日、この地にあった東京高等工芸学校の図書室を放送所として、ラジオ第一声を送り出した」とある。「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」有名なコールサインでラジオ放送は始まった。
 そこで「シリーズ ラジオ100年」を幾つかのトピックスなどにわけてお伝えしたい。必ずしも、年代順ではない事をお断りしておく。
 さて放送記者は日本が太平洋戦争に敗れて間もない1946年4月、日本放送協会(NHK)が公募した400人余りの中から選ばれた26人(女性4人)がスタートだった。
 ラジオ放送の始まりは1923年9月の関東大震災がきっかけだった。今風に言うならば、当時の唯一のメディア、新聞によって「朝鮮人暴動」「富士山爆発」などのフェークニュースが拡散、「事実を早く、正確に」伝えるメディアとして、政府がリードする形でほぼ2年後に開始された。「放送記念碑」はそれを伝えている。
 しかし、当時のラジオニュースは、結局、新聞・通信社の記事がほとんどで、そうこうするうちに、日本は、太平洋戦争に突入、ラジオニュースはほぼ国威発揚放送となってしまった。
 そして戦後。新しい組織体となった日本放送協会(NHK)には、戦前なしえなかったニュースの自主取材と報道を始めようと言う強い意向が生まれていた。又、当時の日本占領軍GHQから戦前の日本の言論統制を廃して自由な放送をという支援を受けて、放送記者は、いろいろ紆余曲折はありながらも定着していった。
 放送記者は、当初多くの新聞・通信社の関係者を講師として招き、先ず「読む記事」から「聴くニュース」の開発を進めた。例えば、裁判ニュースなどの難しいテーマであっても小学生にもわかるように、しかも短く(一本のニュースは1分以内に)伝えるなどの工夫を探究した。事件を伝えるニュースでも重要ではない部分を大胆にカットしてゆく感覚が問われた。
 そして、新聞記事と異なり、速報性はラジオニュースに欠かせない要素だった。一報、二報、三報と差し替えがニュース時間ごとに求められもした。
 放送記者の誕生から7年、1953年テレビニュースが始まった。放送記者にはラジオとは別次元の世界が待っていた。読む記事、聴くニュースから映像が伝えるニュースへの対応を迫られた。映像は、全くインパクトが桁違いだった。放送記者は、情報を追いながら番組作りにも携わるようになってゆく。
 放送記者は、どこへ行くのか?技術革新が激しい放送の世界は今やデジタル時代に突入した。デジタル素材を追いかけ、分析する取材能力も問われるようになった。又、氾濫するSNS情報の真贋を見わける能力も問われている。ただ、こうした激しい変化の中で、真実を追い、それらの事実の分析に基づき将来を展望する事、そして、国家などの権力機構の監視を続ける“オールド”あるいは“トラディショナル”なジャーナリズムの火を絶やしてはなるまい。
陸井叡(叡Office)

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