ここ最近、寝ても覚めてもドナルド・トランプのことばかりを考えている。といっても、彼の熱狂的なファンになったからではない。彼についての研究をするようになり、関連する書籍やニュース記事、論文を連日読み漁るようになったからだ。
トランプ研究を思い立ったきっかけは、2021年1月6日の米連邦議会議事堂襲撃事件であった。襲撃事件に関わった熱狂的なトランプ支持者たちは、2020年の大統領選が「盗まれた」と強く信じていた。本当はトランプが地滑り的な大勝利を収めていたにもかかわらず、不正な方法によって勝利が「盗まれた」と信じ込んでいたのだ。
一部の極端な人たちが荒唐無稽な陰謀論を信じてしまうことはそれほど珍しいことではない。古今東西どんな社会でも、大なり小なり陰謀論を信じる人たちはいる。だが、トランプの主張するこの「不正選挙」陰謀論は、アメリカ政治の中枢にまで入り込んでしまった。事件後様々なメディアや調査機関が世論調査を継続しているが、いずれの調査においても、共和党支持者の6〜7割がこの不正選挙陰謀論を支持し続けている。
襲撃事件の後、裁判所や議会で選挙の公正性についての大規模な調査や議論が積み重ねられ、不正選挙の証拠となるものが全く発見されなかったにも関わらず、共和党支持者の多くが自らの認識を改めることなく、陰謀論を信じ続けているのである。これはあまりに衝撃的な事実である。一体なぜこれほど多くの人が、不正選挙陰謀論を信じ込んでしまったのだろうか。
不正選挙陰謀論に大きな関心が集まる中、Qアノンと呼ばれる過激な陰謀論集団のことがメディアで頻繁に取り上げられるようになった。Qアノンとは、Qを名乗る人物が投稿する陰謀論を熱狂的に支持する匿名のネットユーザーたちのことを指す。アメリカの匿名画像掲示板4chanで生まれ、その後ソーシャルメディアを通して急激に勢力を拡大した。
Qアノンに関心を持ったわたしは、事件後話題の新刊として注目されていたアメリカのジャーナリスト、マイク・ロスチャイルドの著書The Storm is Upon USの翻訳に取り掛かった。陰謀論の細かな知識やネットスラングなど分からないことだらけではあったものの、翻訳しながらこのテーマについて一から勉強していくことにしたのだ。授業や学務、学会業務の合間を縫って、一人で一冊の本を訳し切る作業は思いの他大変で、結局途中で妻に共同訳者として参加するよう頼み込むことになったものの、何とか夫婦で翻訳を完成させることができた(邦訳『陰謀論はなぜ生まれるのか―Qアノンとソーシャルメディア』として慶應義塾大学出版会より2024年1月刊行)。
このロスチャイルドの著書から浮かび上がってくる重要な知見の一つは、ソーシャルメディアが陰謀論の世界を劇的に変えてしまったということである。ソーシャルメディアの登場によって陰謀論は瞬く間に拡散するようになり、かつてはなかなかアクセスすることが困難だった陰謀論の世界に誰もが簡単にアクセスできるようになった。今やソーシャルメディアでトランプに関わる話題を検索しようものなら、頼んだわけでもないのに、トランプ支持者たちが拡散させる陰謀論がタイムラインに出現するようになる。
目についた陰謀論に興味を持って調べ始めれば、たちどころに陰謀論のコミュニティに繋がることになる。そしてソーシャルメディアが可能にした陰謀論のコミュニティこそが、ドナルド・トランプの陰謀論政治を下支えしているといっても過言ではない。かつて陰謀論は、戦争やテロ、大災害や暗殺事件など人心に強い動揺を与える事件が起きた後に、事件の隠された真相を密やかに語るという形で、オカルト雑誌や深夜ラジオ、タブロイド誌のコラムなどの周縁メディアを通して長い時間をかけて少しずつ広まっていくのみであった。
だが、今や事件を待つ必要はない。ソーシャルメディア上で誰かが気に入らない有名人の悪口を書き込み、陰謀論だとレッテルを貼ってフォロワーたちが賛同すれば、それだけで陰謀論の新作が生まれてしまうような時代となった。陰謀論はもはや極めてありふれた日常的な話題として多くの人の目に触れるようになった。陰謀論を武器化して政治的影響力の資源として積極的に活用するトランプの政治スタイルを「陰謀論政治」と呼ぶのであれば、彼の陰謀論政治は、今日のメディア社会において陰謀論が日常化してしまったことを背景としている。
トランプ政治の全てを否定するつもりはない。多少乱暴な言動ではあっても、例えば彼の移民政策に関わる主張には、真剣に検討すべき問題提起が含まれているように思う。とりわけバイデン政権下で700万を超える不法移民がアメリカに流入した事実を踏まえるなら、移民に対する不安や反発が生まれることは何ら不自然ではない。
だが、彼の訴える不正選挙陰謀論には民主主義を活性化させる建設的な要素は何ら含まれてはいない。民主主義の根幹ともいえる選挙制度に対する不信感だけを蔓延させ、民主党支持者と共和党支持者の間の意識の分断を深めるばかりだ。不正選挙陰謀論は、アメリカの民主主義を破壊する危険な嘘であり、この陰謀論の悪用を食い止めることは喫緊の課題だ。その意味において、2024年の大統領選はトランプが勝っても、負けても、その結果が何をもたらすのかを凝視して見守らなければならないと考えている。
烏谷昌幸 慶應義塾大学法学部教授