神社はてっきり、日本固有のものだと思っていたが、どうもそうとばかりは言えないようだ。韓国の信仰の聖地である堂(たん)、沖縄の御嶽(うたぎ)などを訪ねてみると、驚くほど神社に通じ合うものがある。
神社というとまず鳥居と、狛犬と参道の両側の石灯篭が思い浮かぶが、ソウル郊外で見た堂は、榎の古木の根元にある小さな石の祠だった。どこの村にも一つはあるという。この堂の祠の前で個人の家のお祭りや、共同体の行事が行われる。鎮守の森の神社のお祭りみたいだ。ただ、堂の前に広場がない場合は、公民館のような公共施設が使われる。
祭神は祖先やその地域を開発した人の祖霊だから、日本の神社の祭神と似ている。ソウル市郊外の広場で見たのは、榎の森で、その中の一本の古木の根元に祠が祭られ、白砂が敷かれビール缶に花が生けられ、供え物があった。何日か前に行われたらしく、花はしおれかかっていたので、片づけないのですかと聞くと、神が触れたものは神聖だからそのままにしておく、ということだった。
ビルの一室で行われた堂は、部屋の周囲に青赤黄白黒などの幕が張られ、色彩豊かだ。五色は火水木金土の五行を表している。祭壇には祈ってもらう人の供え物が並んでいる。司祭者は巫女(シャーマン)と呼ばれ、特別の衣装を着てお祓いをして、祝詞のようなものをあげ、順番に頼みごとを聞いていく。すべて終わると巫女を中心に参加者が鉦や太鼓に合わせて歌い踊る。身振り手振りなど埼玉県日高市の高麗神社で見た祭礼を思わせた。
堂には、殿閣風で立派な建物もあれば、古木の根元の小さな祠もあり、都市部では公共施設で行われるようだ。
堂の歴史は迫害の歴史でもあった。韓国に儒教や仏教が入ってくると、堂信仰は、古い因習だとして排斥される。男性社会は儒教方式の祭祀を取り入れ、女性社会では、伝統の堂祭祀を引き継いで現代まで続いた。堂祭の一つの「ヨンドウンクッ」が、韓国固有の文化としてユネスコの世界遺産に登録されると、若者の間に一気に関心が広がったといわれる。
一方、耽羅(たんら)国と呼ばれた済州島では、アニミズムやシャーマニズムの伝統が根強いとされ、古くから日本とも行き来が盛んだった。伊勢湾の海女の先祖には済州島出身者が多いという。
日本では「八百万の神」といわれるが、済州島では「一万八千の神の国」と呼ばれる。済州大教授だった玄容駿氏の「済州島巫俗の研究」によると、堂の数は、「行政区域215里に平均1.3個ずつ」、済州道の2009年の調査では359ヶ所とされる。
済州島では、土俗信仰の上に、韓国本土から仏教が入り、さらに13~14世紀には元が侵攻してモンゴル仏教の影響も受けた。その後、朝鮮王朝の下で、儒教が国教になると、男性社会は「酺祭壇(ポジェダン)」と呼ばれる儒教式の儀礼となる。一方、女性社会では堂で巫俗信仰が引き継がれ、祭祀は伝統を守って簡素さを大事にした。
日本では、6世紀頃、仏教の伝来と、現在の神道につながる土俗信仰との競合が始まる。8世紀の奈良時代以降、神仏習合が進み、神社でお経をあげたりした。10世紀になると「延喜式神名帳」で朝廷による神社の格付けが進む。また見上げるような寺院の建築物の影響を受け、神社の建物や神主の服装などにも貴族様式が取り入れられたという。
韓国本土と済州島の堂には、沖縄の御嶽(うたき)に通じるところもある。琉球王朝では男性による儒教(官僚的)が中心になり、王族の女性である聞得大君(きこえおおきみ)を頂点にする各村のノロ(祝女)は、女性が主役だ。
沖縄・南城市の有名な斎場御嶽(せいふぁうたき)は、広い祭祀施設の中に六か所、拝所がある。そこは大きな岩の前に小さな祠と香炉があるだけで、本殿も拝殿もない。人々はここで周辺の自然のどこかにいる神を祈ることになる。日本にも代表的な神社として、奈良県の大神神社や埼玉県の金鑚神社(かなさな)は神殿がない。拝殿から正面の山や岩を祈る。古い神社の形式で、対馬にも簡素な祭壇と石積みの塔だけという神社がみられる。
鳥越憲三郎氏の「古代朝鮮と倭族」「雲南からの道」には、米の発祥の地とされる揚子江上流の雲南省からタイ、ミャンマー、ラオスにかけての現地調査が報告されている。アカ族の村に入ると、門の二本の柱に神社のシンボルである注連縄が渡されている。注連縄は邪霊を縛る意味があるという。また神社の本殿は米蔵の高床式が源流とされる。
日本の本土、沖縄・奄美の御嶽、韓国、済州島の神様がどのように影響し合ったのかは、難しいが、アルタイ・ツングースからの北方の影響、黒潮に乗ってやってきた南方の影響、シャーマニズムはシベリヤなどの伝統文化とされる。
玄容駿教授の指摘にあるように、韓国本土や済州島の信仰と、日本の本土や沖縄・奄美のそれとは相違点もあるが、仏教・儒教との関わり、政治体制との関わり、男女の役割分担などでは似ている点も少なくない。神社信仰はアジア、シベリヤなど広い範囲から長い時間をかけて影響し合いながら、日本に伝来したのではないか。
栗原猛(元共同通信政治部)