メディアはハンセン病をどう伝えたか

 2019年7月9日、ハンセン病の元患者家族が受けた差別被害をめぐり国に損害賠償を命じた熊本地裁判決について、政府が控訴しない方針を決めた。安倍総理は総理大臣官邸で会見を行い、次のように述べた、「今回の判決内容については、一部には受け入れ難い点があることも事実であります。しかし、筆舌に尽くし難い経験をされた御家族の皆様の御苦労を、これ以上長引かせるわけにはいきません。その思いのもと、異例のことではありますが、控訴しないことといたしました。」

 2001年に小泉政権が元患者に関する賠償判決の控訴を断念し、補償に乗り出して以降、国や自治体はハンセン病への理解を深めるための啓発や学習に力を入れてきた。しかし、元患者家族への差別被害は無くならず、「村八分」や就学・就労の拒否、結婚差別、進路など人生の選択肢の制限などが続いてきた。「らい予防法」が廃止されてから23年、この判決と政府の判断を、すべての被害者に対する差別と偏見を社会から無くしていく契機としなければならない。

 ハンセン病は「らい菌」による皮膚や末梢神経への細菌感染症である。らい菌の毒力は極めて弱く、ほとんどの人に対して病原性を持たないため、人の体内にらい菌が侵入し感染しても、発病することは極めてまれである。ハンセン病の本格的な薬物療法は、1943年に始まり、我が国でも1947年より患者への薬剤投与が開始された。第二次大戦後には多剤併用療法によってハンセン病は完治するようになった。しかし、患者隔離政策はその後も維持され、1996年に「らい予防法」が廃止されるまで約90年間も続いた(「らい予防法」の前身は1907年「法律第十一号」癩予防ニ関スル件)。この間に、メディアはハンセン病の何を報じ/何を報じてこなかったのか。「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書(厚労省)」をもとに検証する。

 敗戦から1953年までは、次のような点が指摘されている。ハンセン病が、社会的には「患者の隔離」(社会からの排除)という形の対応に多数の人が疑問をもたなかったことから関連記事が非常に少なかったこと。また、患者に対する救済の必要性を指摘するが、それらはいずれも恩恵・慈善といった観点からのもので、全患者強制隔離収容政策の容認もしくは前提として書かれているということである。ハンセン病に対する差別、偏見を助長するような記事も見受けられる。

 1953年は、全国国立らい療養所患者協議会(全患協)等による激しい闘争にもかかわらず新予防法が国会を通過した年である。以降、報道量は増加し偏見や差別に起因する事件も取り上げられている。また、患者、反対派住民、行政の対立が詳しく報道され「中立的な立場」が採用されている。

 熊本地裁判決によれば、1960年頃には「らい予防法」は違憲状態に陥っていたと認定されたが、1960年代には強制隔離と憲法との関係を問うような記事は見受けられない。法改正等に関するもの、人権侵害等に関するものなども見出されていない。一方で、市民ボランテイ的な「救らい」活動が紙面を飾り、ハンセン病・ハンセン病患者等に対する「理解」と「偏見解消」を求め、入所者の苦悩を伝える記事が目立ち始めるのはこの時期からである。

 隔離推進論的な記事がみられなくなり「理解促進」が基調となるのは、1964年11月の「里帰り事業」報道以降である。「里帰り」(=社会復帰)推進論の立場から、事業の内容、推移が、他県への拡大等の反響も含めて詳しく報道されている。また、療養所入所者の作品等の紹介を通じて理解を求めようとしているのが特徴で、患者運動に関する記事が目立ち始める。憲法論や人権論の観点からのものとはいえないものの、患者運動が「中立的な立場」から取り上げるようになったことが大きな変化である。さらに、1965年5月から、従前の「らい病」「らい患者」に代えて、「ハンセン氏病」「ハンセン氏病患者」という表記が用いられるようになった点も特筆される。

 1970年代に入ると、ハンセン病関連報道が極めて少なくなることが指摘されている。社会をゆるがす差別事件がなく、入所者も療養所生活の安定を望んだため、「らい予防法」闘争のような外向きの運動が沈静化していったことが要因とされている。この時期の療養所内の処遇の改善と法廃止に向けた運動と、メディアの姿勢については本稿の後半であらためて触れたい。

 1979年から1984年末までの時期は、「偏見解消」に力点が置かれている。ハンセン病・ハンセン病患者に対する「理解」の内容が、「同情」的なものから「偏見解消」に質的に変化している。また、長島架橋関連の記事も出始めている。瀬戸内海の孤島長島に国立第一号の療養所として愛生園が設立されていたが、入所者自治会による架橋運動に関する記事である。「差別くずす橋」や「隔離の歴史返上」といった観点からのもので、予防法改正関係の記事も患者運動の側に立っている。特筆されるのは「ハンセン病隔離政策に償いを」という見出しが早くもこの時期にみられる点である。

 1985年からの時期は、「人間回復」が前面に出てくるのが特徴である。きっかけとなったのは、長島架橋関係の記事である。「患者決起」「最後の闘い」「今なお『法で隔離』」などの見出しの下に予防法改正問題を取り上げた記事のほか、憲法論の立場から予防法を批判する記事も認められる。

 1991年から1996年「らい予防法」廃止までの記事は、「予防法改正・廃止を促進」と特徴づけることがでる。関連する社説と共に全患協、識者の動きなどを詳しく報じ、1994年頃からは法廃止論が主張される。また、療養所所長会議や日本らい学会の反省も大きく扱われ、社会の反省を促す社説も見られる。日本らい学会が、日本ハンセン病学会に名称変更したのは1996年4月のことである。

 新聞やテレビのハンセン病取材が本格化したのは法廃止以降とされる。「メディアがもっと早く関心を示していれば・・・」という批判的な分析は各所に見られる。しかし、1976年から1996年までを見れば、前期では世論に先行して中立的な立場で患者運動を報じ始め、「偏見解消」に力点を置いた報道が行われており、1985年以降の中期では、長島架橋に関連して「人間回復」が前面に押し出されている。さらに、後期の1991 年から「予防法改正・廃止」を促進する立場からの報道が行われていることなどから、先見的な報道内容には一定の評価を与えることができる。

 では、なぜ「らい予防法」の改廃は遅れたのだろうか。「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書(厚労省)」における「全患協および入所者自治会側の事情」の記述に一つの要因を見出すことができる。

 「らい予防法」の下では、療養所はほぼ完全に自足的な社会を構成し、社会から患者を隔離すると共に自らをも隔離し、国の全額負担の「福祉」を提供するという体制を作り上げていた。このような体制での処遇改善が一定程度実現された1975年以後の全患協運動および自治会運動の経済闘争は、療養所内における既得権擁護に変化し、予防法改廃運動と二者択一の関係に陥っていった。当時のわが国の福祉水準の低さが隔離生活への疑問を封じさせ、療養所内における既得権擁護のために予防法改廃慎重論に入所者を向かわせたのである。

 このような状況で、予防法改廃に向けて自治会及び全患協が意思統一を図っていくためには、入所者の社会復帰後の生活基盤を支える制度的保障が必要であったと考えられる。その実現には、憲法論、人権論の見地から強制隔離と療養所内の処遇のジレンマを打破することが法律家に求められていた。しかし、それは1996年の法廃止を待たなければならなかった。

 一方で、予防法改廃運動には社会的支持が不可欠で、メディアが全患協および自治会が抱える事情、療養所内における入所者の処遇を伝えつつ、法改正の議論を誘起するアジェンダセットが必要であったことは疑いがない。また、医学的な観点から隔離政策の矛盾を指摘する記事や、ハンセン病を正しく理解させ差別と偏見の解消を促すような記事が無いことも指摘されている。「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書(厚労省)」は、メディアの責任に触れ、「新聞記者の多くがハンセン病問題に不勉強で、療養所に足を踏み入れることなく、『隠蔽された人権侵害』の救済に無力だった」と指摘している。

 それでは、マスコミがこれから果たすべき役割とは何か。現代の日本では新規のハンセン病患者は皆無に近く、発症しても薬剤治療によって完治する。感染病に関する正しい知識を普及啓発することが重要である。さらに、患者家族の救済に向けたハンセン病問題基本法の改正、経済的な補償だけでなく、社会から差別をなくす施策を講じることも政府の責務である。これらの着実な実現のためには、メディアの監視機能が必要であり、関係省庁の連携による法改正と補償へ向けた取り組み、人権啓発、人権教育などの普及啓発活動の進捗を伝えていかなければならない。また、ハンセン病患者、元患者やその家族の苦悩を発信し続けることによって、社会の関心を繋ぎとめておくことも必要だ。
橋爪良信(理化学研究所マネージャー)

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