戦後の高度成長を支えた日本の経済界で、中心となったリーダー会社の一つは間違いなく東芝だったろう。経団連会長(1956~1968年)となった石坂泰三(1970年88歳で死去)は戦後の高度成長期を牽引した財界人だった。やはり経団連会長(1974~1980年)を務めた土光敏夫(1988年91歳で死去)は中曽根内閣での国鉄、電電公社の民営化を成功されるなど「土光臨調」といわれる臨時行政調査会での行政改革をリードした。「朝食のおかずはメザシ3匹だけ」“メザシの土光さん”といわれた清貧な生活もあって、国民的人気を集めた。二人とも東芝の社長出身者だ。東芝は、“財界主流の東芝”というイメージと切り離せない。
それがどうだろう、このところ連日の新聞、テレビ、ネットでは、「東芝7125億円の特別損失、決算発表延期へ」、「東芝危機去らず、虎の子の半導体事業を売却へ」、「東芝再生は不可能か?」、「解体の危機、断末魔の東芝!」という見出しがおどる。新聞社の経済部記者として、往年の東芝の経済界での存在感を知っている身としては信じられない思いがする。なにをどう間違えたのだろうか。
何が東芝をそこまで追いつめたのか?
「あの当時、うちは東芝と落札でせっていたんですよ。東芝が最終的に出した価格がバカ高く、とてもうちは高くて応じられない―と判断して降りたんです。その後、相手側は『いいキャッシュ・ディスペンサー(現金引き出し機)がついた』と言っていたと聞きました」
三菱重工業の原子力部門の関係者の言葉だ。これはどういう事かといえば、2006年、東芝が三菱重工を追いかけてアメリカのWH(ウエスチング・ハウス社)買収に乗り出し、競り勝った時、負けた三菱側がWH社の幹部から聞いた言葉だ。
この時の東芝の買収価格は54億㌦(約6370億円)、三菱の見積もりでは最大でも3000億円、東芝はその2倍の高値をつけたわけだ。「キャッシュ・ディスペンサー」とヤユされるのも無理はない。しかしそれだけ原発事業の将来性は確信されていた。当時は原子力ルネッサンスという言葉に代表されるように、地球温暖化防止の切り札として原子力発電は脚光を浴びていた。全世界500機以上の建設が見込まれる超有望産業となっていた。しかしWH社はスリーマイル島の原発事故以来経営が低迷していた。東芝はこれをチャンスととらえて、原発事業の先行きを狙って世界三大原発メーカー(アメリカのWH,GE,フランスのAREVA)のWH買収を決断した。この後、日立はGE、三菱はAREVAと提携、世界の原子力発電事業の基本構図が出来上がった。
しかし2011年の東日本大震災による福島原発事故で、世界の原発事業の様相は一転する。原発建設の安全基準の規制強化に伴うコストアップ、さらにベトナム、トルコ、台湾などでの建設計画の中止、見送りなどが相次ぐ。WH社は東芝という「キャッシュ・ディスペンサー」を得て、この危機を乗り切るため原発工事を手掛ける「CB&Iストーン・アンド・ウェブスター(S&W)」を引き取るが。これがとんだ食わせ物だった。
当初「のれん代(企業の買収で支払った金額と、買収先の純資産の差額)」は100億円程度と見込んでいたが、これが何と7125億円だったという。これを今期償却しなくてはならない。「寝耳に水」と東芝はいっているが、なんとも信じがたい。東芝は6000億円ものキャッシュをつぎ込みながら、ほとんどWH社の経営を掌握していなかったといわれても仕方がない。すでに二回わたる粉飾決算、医療部門のキャノンへの売却、そして今回の決算発表の延期、債務超過の恐れ、株価と格付けの急降下、虎の子の半導体部門の切り売り。石坂・土光の遺産を完全に食いつぶした。19万人の従業員を抱える名門企業「東芝」の行方は極めて厳しい。
桃田 五郎(元全国紙経済部記者)