1973年・第四次中東戦争体験記①-イスラエル・ロッド空港で丸裸に-

 私がイスラエル政府奨学金を得て、エルサレムのヘブライ大学に留学したのは、1973年6月であった。私が降り立ったテルアビブの空港は、「日本赤軍」による銃乱射事件が、その前年に起きていた(1972年5月)。「ロッド空港乱射事件(Lod Airport Massacre)」である。「日本赤軍」は、この事件を「リッダ(Lydda)闘争」と呼んでいた。理由は、地名のヘブライ語読みが「ロッド」、アラビア語読みが「リッダ」だからである。
 この事件の背景には、日本国内での全共闘運動の顛末、特に「あさま山荘事件」以後、武力革命を目標とした「赤軍派」が国内的孤立化を、グローバルな「革命勢力」として立て直そうとした戦術転換があった。彼らの一部は、中東に渡り、「パレスチナ解放」を目指す「PFLP」と組んで、「真の世界の革命戦士」(岡本公三の陳述)であることを示すためにイスラエルの表玄関である空港で、乱射事件を起こしたのであった。
 このテロ攻撃で乗降客26人が殺害されたが、イスラエル国籍の死者は7人にすぎず、大部分はプエルトリコからの「キリスト教徒」巡礼団であった。殺害されたイスラエル人の中に、世界的に著名な科学者であるアハロン・カツィール(ヘブライ大学教授)が含まれていた。彼の弟エフライム・カツィールもまた著名な生物物理学者であり、イスラエルの大統領(1973-1978)を務め、伝説の女傑ゴルダ・メイヤー首相とともにエジプトとの和平条約締結(1979年3月、ワシントンにおいて)の礎を築いた。
 「ロッド空港乱射事件」からちょうど1年後の6月、イスタンブールからトルコ航空機を乗り継いでロッド空港にたどり着いた私は、想定した以上の「すばらしい」扱いを受けることになった。私は、空港の保安室につれて行かれ、狭い個室に屈強な係官と観るからに意思の強そうな若い美人の軍服姿の女性に囲まれて、「Take off all your clothes」と命令された。靴下も脱ぎ、いよいよブリーフを脱ごうとしたところで、制止された。それから私のパスポートをめくった彼らは、はじめて気がついたような振りをして、「あなたはイスラエル政府の給費留学生なのですね。ようこそイスラエルへ」と態度を一変させた。その後、イスラエルに滞在中、ヘブライ大学の催しや、文化行事などでカツィール大統領もご出席されていた会合に出席したが、「大統領のお兄様の件は、ご存じですよね」と参加者から声を掛けられることもあった。
 ロッド空港は、現在、名称をベングリオン空港(初代首相ダビッド・ベングリオンの名前に由来する)に変えている。アラブ諸国からは当然のように航空路線はない。トルコは第一次世界大戦まで、中東地域の盟主であったことと、民族的にアラブ人ではないため航空路線を持っていた。私がイスラエルに留学する直前まで東京→テルアビブには、エールフランスが路線を持っていたが、廃止されてしまっていた。当時、ソ連邦上空は開放されておらず、日本からのヨーロッパ便は南回りであった。私は、羽田から「パンアメリカン001」便という南周りの世界一周便で、台北→マニラ→サイゴン→バンコク→ニューデリー→テヘラン→イスタンブールと各駅停車(?)で、飛び立つ度に「朝食」が配られた。
 鶴木 眞(東京大学名誉教授)

Authors

*

Top