▼世界も注目!平和な縄文時代
縄目の模様がついた「縄文土器」が作られていた時代を「縄文時代」といいます。以前から縄文時代に関心がありました。約1万5000年前から2400年前まで1万年以上にもわたって、世界史的にも珍しい平和な時代が続いたからです。
人々は北海道から沖縄まで各地に定住して集落を作り、狩猟採集中心の生活を送っていました。大陸のように外敵に攻められる心配がなく、自然の恵みも豊富で、必要な分だけをとれば良かったので、現代のような貧富の差もほとんどなく、平和で穏やかな暮らしをしていたとみられます。
縄文時代の遺跡は、東日本でたくさん見つかっており、北海道・北東北の縄文遺跡群・17か所が2021年に世界遺産に登録されました。このうち今回は、青森、岩手、秋田の3県にある8つの遺跡を、6月21日から2泊3日で巡る旅行会社のツアーに参加しました。盛岡まで新幹線で往復し、あとは団体専用の大型バスで回りました。
▼御所野遺跡で縄文時代にワープ
最初に訪れたのが岩手県一戸町の御所野(ごしょの)遺跡です。団体バスを降りると、遺跡のある御所野縄文公園の入口にあたる場所に、不思議な形のつり橋が掛っていました。蛇腹のようなトンネル形で、中に入るとゆるやかに右にカーブしていて先が見えません。何が待ち受けているのかワクワクさせるにくい演出です。作りからしてまさにタイムトンネルに入ったようで、耳を澄ませて、せせらぎや鳥のさえずりを聴きながら長さ120mのつり橋を渡りきると、その先に自然豊かな縄文時代の村の風景が広がっていました。
御所野遺跡は、川沿いの細長い台地の上に作られた縄文中期(5000~4200年前)の村の跡で、800棟を超える竪穴建物跡が見つかっています。焼けた住居跡の発掘調査からは、屋根に土が厚く被さっていたことがわかりました。竪穴住居は、土で覆われた塚のような姿をしていたようです。縄文時代の竪穴住居といえばこれまで古民家のような茅葺き屋根と思い込んでいましたが、土屋根の可能性が高くなったことで、縄文時代の竪穴住居のイメージが覆されました。やはり現地に行って見て専門家に聞くことです。
▼三内丸山遺跡は想像を掻き立てる
今回の旅で注目していたのは青森の三内丸山(さんないまるやま)遺跡でした。縄文時代前期から中期(約5900~4200年前)の大規模な集落跡で、広さが東京ドーム9個分の42haもあり、国の特別史跡になっています。
遺跡の存在は江戸時代から知られていました。発掘調査では多数の竪穴住居跡や掘立柱(ほったてばしら)建物跡、墓、道路跡などが確認されました。訪れた日は土曜日で、団体客や親子連れなどでテーマパークに来たような賑わいぶりでした。この遺跡を一般公開するに当たって、集客力のある九州・佐賀の吉野ケ里遺跡(弥生時代)を参考にしたといわれていて、シンボル的存在である高さ約15mもある6本柱の掘立柱建物は、ただ柱が立っていただけではないのかという意見もあるなか、ロシアから輸入したクリの大木を柱に使い、屋根のない三層構造の建物に仕上げるなど見せ方にこだわっていました。
想像力を働かせていくのが考古学の醍醐味と言われており、遺跡にある建物のすべては、あくまで想像で復元されたものです。考古学の世界は、新しい発見で定説が覆されることが珍しくありません。三内丸山遺跡は、本当はどんな姿をしていたのか、想像を掻き立てられました。
▼大湯環状列石はパワースポット!?
最終日に訪れたのが秋田・鹿角市の大湯(おおゆ)環状列石です。遠くに山並みを望む見晴らしのよい台地に、縄文後期(約4000年前)につくられた最大径52mと44mの2つの環状列石がありました。環状列石は、石を2重の円を描くようにならべたもので、「ストーンサークル」とも呼ばれ、お墓や祈りの儀式のための特別な場所だったと考えられています。
この場所では、熊が出没したことがあり、熊よけの電気柵が張り巡らされていました。遺跡見学に来て熊に襲われたくはありません。熊はいないか、周囲の茂みに目を凝らしながら見学して回りました。
現地ガイドの説明によると、ここからほど近いところにある標高280mの黒又山(通称クロマンタ)は伝説マニアの間で日本のピラミッドと言われており、大湯環状列石は超自然的なエネルギーが満ち溢れている「パワースポット」としても人気があるということです。
日本では、毎年1万件を超える発掘調査が行われていて、そのほとんどが開発に伴うものです。開発優先で貴重な遺跡が犠牲になってはいけません。今回の旅行でその気持ちが強くなりました。
山形良樹(元NHK記者)