映画『国宝』の興行収入が173.7億円を記録し、邦画の実写作品として22年ぶりに最高興収を更新した。配給元の東宝が25日に発表した数字は、2003年の『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の173.5億円を、わずかだが象徴的なかたちで上回った。
6月6日の公開直後の週末は観客動員数こそ3位スタートだったが、その後4週連続で週末興収が前週を上回り、21週連続で動員トップ10入り。今月24日までの公開172日間で、1231万人を動員するという〝ロングラン型の怪物ヒット〟となった。
主演は吉沢亮、共演に横浜流星。吉田修一の同名小説を原作に、歌舞伎の世界を舞台とした壮大な人間ドラマだ。
極道の家に生まれた主人公・喜久雄と、歌舞伎界の御曹司・俊介。互いの宿命と才能をぶつけ合いながら「人間国宝」を目指す三時間の物語は、血の宿命と芸の自由が激しく交錯する。
では、なぜこの映画は、ここまで多くの観客の心をつかんだのか。
俳優陣の熱演、脚本・演出の完成度、原作の力――ヒットの理由はいくつも列挙できる。 だが、もう一歩引いて社会の空気と結びつけてみると、別の背景も見えてくる。
それは、日本社会に深く沈殿している「世襲」へのシンパシーと郷愁、そして〝血〟に対する複雑な感情である。
▶「氏より育ち」と言いながら、〝氏〟に弱い国
日本人は「氏より育ち」とよく言う。血筋よりも環境が人をつくる、という意味だ。しかし現実には、私たちはかなり〝氏〟に弱い。
政治を見れば、国会議員の約3割が世襲議員、自民党に限れば4割近いと指摘されている。親の選挙区・支援者組織・政治資金をそのまま引き継ぎ、「あの先生のご子息なら」という理由で票が集まる。選挙区はもはや〝地元〟というより、〝家元〟と言った方が実態に近い。
ここで他の民主主義国と比べると、日本の特殊ぶりが際立つ。
ドイツ、北欧諸国、カナダ、韓国など、政治が成熟した多くの国では、世襲議員の比率は1割を超えることがほとんどない。アメリカやイギリスの下院でも、政治名門一族の存在感は大きいにもかかわらず、世襲議員の比率は概ね5~10%程度にとどまるとされる。
つまり日本は、「民主主義の顔をした“血統制”の国」と言っても大げさではない。
もちろん、血統そのものに罪はない。
むしろ有権者の側に、「知らない新人より、知っている名前の方がまだ安心」という心理がある。人は不確実な時代ほど、未知の能力より既知の血筋を選びやすい。そこに〝平穏な安定〟を求めるのは、私たちの日本人的な反応でもある。
だが、それをもう少し辛辣に言い換えれば、こうも言えるだろう。
「民主主義の真剣勝負を、血統の保険でやわらげている」――と。
▶「家の論理」が残るのは日本だけではないが…
とはいえ、「家の論理」が残っているのは日本だけではない。
イギリスには、世襲貴族が議席を持つ「貴族院(上院)」がいまも存在する。ただし、1999年の改革で世襲貴族の数は一気に92人にまで削減され、その後も「世襲枠そのものを廃止すべきだ」という議論が続いている。2024年には、残る世襲貴族を一掃する法案が提出され、大きな政治テーマとなった。
アメリカにも、ブッシュ家やケネディ家、あるいはクリントン家のような政治名門はいる。だが、ブッシュ父子とクリントン家が大統領選の顔ぶれを占めた2000年代以降、「また同じ一族か」という世論の疲労感と批判がむしろ強まった。
政治学の研究でも、政治的ファミリーがつくる王朝は、競争を弱め、政策の質を必ずしも高めないという指摘がなされている。
つまり、他の先進民主主義国でも「家」が政治に顔を出すことはあるが、そのたびに「それは民主主義の精神に反するのではないか」と強い批判が巻き起こる。世襲は、あくまでも〝例外〟であり、〝隠しておきたいもの〟であって、〝前面に押し出す売り文句〟にはなりにくい。
それに対して日本では、「三代続けてこの選挙区を守ってきた」「地元の○○家」といったフレーズが、今もなおポジティブな宣伝文句として通用してしまう。この差は小さいようでいて、実はとても大きい。
▶会社もまた「家」だった
血の論理が生きているのは、政治だけではない。経済の世界もまた、「家」の影響力が依然として強い。
日本企業の約9割がファミリービジネスであり、上場企業でも創業家が取締役会に強い影響力を持つケースは少なくないとされる。創業者が「社員は家族だ」と語りながら、いざ後継者を決める段になると「それでも社長は息子(あるいは娘)に」という結論に落ち着く――そんな話は枚挙にいとまがない。
もちろん、これは一概に悪とは言えない。
・長期的視点に立った経営が可能になる
・創業家が自らの名字を賭けて企業を守る
・地域社会にとって〝顔の見える責任者〟になる。
こうしたメリットも確かにある。
しかし同時に、血縁で固めた「城」が完成した瞬間、外部人材が入りにくくなり、イノベーションは起きづらくなる。伝統を守ることと、血を守ることは、似ているようでまったく違う行為なのだ。
映画『国宝』の歌舞伎の世界は、この日本的な構造の凝縮されたモデルでもある。
▶「芸の血」に憧れる人々
歌舞伎は典型的な〝家の芸〟だ。家を継ぎ、名跡を継ぎ、芸を継ぐ。そこで血は、「文化の容れ物」として機能する。
一方、文楽や落語の世界は、基本的には世襲ではない。誰でも弟子入りして修業を積めば、身一つで上を目指せる世界だ。
たとえば、ある人気落語家がいる。20代半ばにして、30数人抜きで真打ち昇進を果たし、現在も第一線で活躍している実力派だ。そんな彼ですら、「噺家の血」への憧れを隠さなかったと伝えられる。結婚相手の父親は、昭和のテレビ黄金期を支え、「爆笑王」と呼ばれた国民的芸人だった。
芸の世界は、本来は実力主義でありながら、どこかで血を欲してしまう。それは芸人の業なのか、人間の業なのか。
▶「育ち」にも、すでに血が混じっている
「氏より育ち」という言葉は耳ざわりが良い。
だが、冷静に考えると、その〝育ち〟の環境自体が、すでに〝氏〟によって規定されていることが多い。
裕福な家庭に生まれれば、教育機会は自然と増える。文化資本の高い家では、本や芸術に触れる機会が多い。親の仕事や人脈が、子どもの視野を決める。
近年の若者言葉で言えば、「親ガチャ」である。
どの家庭に生まれるかで、教育も職業も人脈も変わってしまう――それを自嘲気味に「ガチャ」と呼んでいるのだ。しかしこの言葉には、もう一つの含意もある。
「ガチャの結果」は選べないが、「引いた後の育て方」――すなわち育ち――をどう積み重ねるかが、なお人生を左右するのだという感覚だ。
「氏より育ち」と言いながら、育ちのスタートライン自体が氏によって決まっている。
このねじれは、日本社会だけでなく、多くの国が抱える現代的な矛盾でもある。
▶血を超える勇気、血を活かす知恵
世襲そのものを、最初から悪と決めつける必要はない。
問題は、血によって才能や価値が「自動的に保証される」と錯覚してしまうことだ。血は出発点を与えるが、目的地を決めてはくれない。芸能の家に生まれても、努力を怠れば舞台には立てない。政治家の家に生まれても、信頼を失えば次の選挙はない。
だからこそ、血を継ぐ者には覚悟が問われ、血を持たぬ者には、越境する野心が問われる。
映画『国宝』の主人公・喜久雄が見せたのは、まさにその姿だ。血の宿命から逃げるのではなく、血を抱えたままなおそれを超えようとする意志。
そのドラマは、家を継ぐ者にも、何も継ぐものを持たない者にも、同じ重さで響く。
▶「家元ニッポン」のこれから
日本は「氏より育ち」と言いながら、私たち自身が“育ちの良さ”をしばしば〝氏〟で測ってしまう国だ。
政治も、企業も、芸能も――そこかしこで「家」が顔を出す。だが、本当に文化を継ぐとは、血ではなく志を継ぐことだろう。血統書ではなく、「何を成し遂げ、何を手渡したか」が問われる社会へ転じられるかどうか。
173.7億円という『国宝』の歴代1位ヒットは、私たちがいまだに「血の物語」に心を揺さぶられながらも、同時に、その血を超える物語を強く求めていることの証しなのかもしれない。
「家元ニッポン」は、いつまで血の安心に寄りかかり続けるのか。
それとも、血を活かしつつも、それを越えていく〝第2幕〟を自ら開くのか――。
観客として劇場を出た私たち一人ひとりに、その問いは静かに突きつけられている。
佐久間憲一(牧野出版社長)