ホロコーストの地をめぐって思ったこと

 私は幼い頃からホロコーストへの強い興味があった。振り返ってみれば、5歳ごろに見た映画「シンドラーのリスト」の影響であった。当時は、ひたすらユダヤ人が殺されていくのを見て怖かったのと、これが現実に起きたということが信じられなかった。それから、私が初めて読んだ本はアンネ=フランクに関する本であったし、それに関するドキュメンタリーも見るようになった。大学生になったら自分でお金を貯めてアウシュヴィッツに行きたいと思うようになったのは、高校生になって世界史の授業を選択した頃だろうか。私の興味は幼いころから薄れることはなかったのである。大学生になって、さあ海外へ行こうとしたが、感染拡大や国際情勢の悪化など障壁ができてしまった。しかし、むしろ、戦争中のウクライナの隣国であるポーランドに行くこと、ロシアがナチスのことを声高に叫ぶ今だからこそ、行くことに意味があると思った。そこで昨年9月に渡航した。

 今回の中欧一周旅のスケジュールはこうだ。去年(2022年)9月1日成田空港を出発し、カタールでトランジット。9月2日ウィーンに到着。夕食を食べて散策をした。至る所で反戦のデモが行われており、大聖堂にはウクライナの国旗が掲げられていた。その後、夜行列車でオシフィエンチムへ向かった。寝台列車が取れると思っていたところ、クシェット(寝台)は満席だから椅子の席しかないと言われ、仕方なく椅子の席で夜を明かし、翌朝オシフィエンチムへ到着。そのままアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を見学した。翌日はクラクフへ移動し、シンドラーの工場の博物館を見学し、再び夜行列車でベルリンへ。ここでもクシェットは取れず、椅子の席で夜を明かした。9月5日、ベルリンに到着すると。テロのトポグラフィー、ベルリンユダヤ博物館見学。翌6日、ザクセンハウゼン強制収容所見学。7日、虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑、ドイツ抵抗記念館見学。8日、アンネフランクツェントルム、ドイツ歴史博物館見学。9日、ペルガモン博物館見学後、西部のハノーヴァーへ移動。列車の急な変更と遅れにより、スーツケースを持って高校陸上部を思い出させるような全力疾走をし、無事ハノーヴァーのへルマンスブルクにあるホテルに到着。もし道に迷って乗り継ぎに失敗していたら、ゲリラ豪雨の中、重い荷物を持ち、何もない田舎道を25キロ歩くことになっていただろう。10日、ベルゲンベルゼン強制収容所見学。ここでは念願のアンネ=フランクのお墓参りをした。11日、ニュルンベルクへ移動し、ニュルンベルク裁判記念館見学。12日、ツェッペリンフェルト、帝国党大会会場文書センター見学。13日、ダッハウ強制収容所、ドクツェントルム見学。14日、目的地全てを回り切った感動を胸に、今までできなかった観光を1日楽しんだ。そして16日に帰国した。

 今回の旅で印象に残っているところを3つあげる。1つ目は、この度の最大の目的であるアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所である。先に述べたとおり、日本を出てからシャワーも浴びることができず、ベッドで寝ることもできずに現地時刻9月3日を迎えた私は最悪のコンディションでオシフィエンチムに到着した。オシフィエンチムの駅から強制収容所は少し離れたところにあり、歩いて向かった。しかし、道が間違っていたようで、優しいポーランド人がそっちではないと言って車に乗せてくれた。あらかじめ日本人ガイドの中谷さんのツアーを申し込んでいたため、それまでの間、荷物を預け、収容所の外にあるモニュメントなどを眺めていた。そこに書かれている文章を眺めているだけで、どれだけ劣悪な列車で死が待ち受けているアウシュヴィッツに運ばれてきたかを考えたら、私の3日シャワーとベッドがないこのコンディションなんて屁でもないと思った。

 集合時刻になると、他にも日本人が10名ほどいた。全員が揃ってからセキュリティチェックに入った。空港よりも厳しいチェックが3度ほどあった。手荷物や身体検査も厳重なもので、ネオナチの訪問を警戒しているとも思われる。セキュリティを抜けた後、ガイドの声が離れていても聞こえるヘッドセットを渡され、ツアーは始まった。本来ならばこのシーズンは社会科見学の学生たちが多いそうだが、コロナの影響で少ないそうだ。しかし、それでも多くの人が訪れているのではないかという印象を受けた。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のツアーは3時間程度で、途中休憩を挟んでバスに乗りもう一か所の収容所、映画で出てくる列車が到着するゲートがある方に向かう。最初に回るのが、所長の家があり、ガス室の建物がきれいに残っている方である。こちらでは、収容された人々の刈られた髪の毛の山や、遺品、チクロンBの缶の山を見ることができる。(写真1) 膨大な数の靴や鞄が展示されており、それぞれには名前が書いてあった。荷物なんて持ってきてもそれを再び手に取ることなどできず、価値のあるものはナチスに回収されてしまっていただろう。解説を聞きながら、歩いて進んでいくと、この収容所の所長ヘスの家があった。ここに妻と4人の子供と住んでいたようだ。所長が収容所の中に住むということは不自然ではないのかもしれないが、なぜ毎日多くの人間が殺されている同じ敷地内で家族と共に生活ができるのか、私には理解できない。さらに理解できないことが、その家はガス室の目の前にある。そのガス室は今も中に入ることができる。(写真2) 中はとても広く、上にはシャワーの管のようなものがあった。収容者はシャワーを浴びろと言われ、中に入るが、ガスで殺されていたようだ。一度にたくさんの人を殺すことができる施設の隣に住んでいて、子供たちは何も思わなかったのだろうか。ユダヤ人が殺されることは正しいことでむしろ正義だとでも思っていたからこそ、疑問に思うことはなかったのだろう。ここには巧妙なプロパガンダ戦略と徹底的に秘密を守り抜くナチスの体制があったからのように思われる。ガイドの中谷さん曰くガス室を作る際も、この建物がガス室になることを知るものは一部の人間だけだったという。設計図にもガス室という文字は書かれていなかった。

 ツアーが終わった後、一度出てしまったのだが、チケットは持っていたので中に戻ろうとすると、警備の人がアジアから来た小さい子供だと思われたのか、もう一度入る事を許可してもらった。まだ中にいた中谷さんにそこでもう一度会い、今回回れなかった奥のバラックも見てきなさいとのことだったので、トイレなどを見てきた。長いベンチに丸い穴が空いているだけのトイレである。映画では、たまったら収容者たちが自ら処理をしていたシーンがあったので、この環境では病も流行るのは仕方ないと思った。中谷さんのツアーではこの2か所の収容所をまわり、建物ごとに解説されるもので、今回だけでもかなり多くのことを聞くことができたが、あと何回か行く方が私はもっとためになると思った。

 2つ目は、ベルゲンベルゼン強制収容所である。ここは、ベルリンから西に3時間程度のところにあるハノーヴァー、ツェレにある強制収容所で、アンネ=フランクが亡くなった強制収容所として知られている。ここは田舎で周りには何もない。移動手段も土日であったため、宿泊していたホテルでタクシーを手配してもらい、向かった。タクシーの運転手さんはとても優しく、片言の英語で日本から来た学生であると伝えると様々な事を教えてくださった。事前に調べていても気づかなかったのだが、このベルゲンベルゼン強制収容所の隣はNATO軍の基地で、多くの軍人がいる事を教えてくれた。いろいろ話していると強制収容所に到着した。今回、収容所はアウシュヴィッツ、ザクセンハウゼン、ベルゲンベルゼン、ダッハウと4箇所行ったのだが、ここが一番人は少なかった。場所も場所で、アウシュヴィッツは世界遺産として世界的に有名で、ザクセンハウゼンもベルリンから1時間ほど、ダッハウもミュンヘン郊外であるが、ベルゲンベルゼンは周りに大きなものがない。必然的に人も少なく、だからこそ基地があるのかもしれない。

 受付を済ませると、まず博物館の方から回った。とても静かで、近代的な美術館のような佇まいであった。生存者の方のお話が流れている映像を見ることができるシアタールームのようなものや、もうほとんど残っていない鍋などの遺品などが展示されていた。ここの博物館で印象に残ったものは、ベルゲンベルゼン収容所が解放されたときに撮られた映像である。SSの様子が証拠映像として映されていた。痩せ細ってしまった収容者たちを穴に落とし埋葬していく様子は見ていられるものではなかった。ここの収容所は、アウシュヴィッツのように人々を殺そうとするような収容所ではなく、もはや食べ物も薬もない、病気が流行っているただの劣悪な場所であった。収容者の死因も殺害されたことによる死というより餓死や老衰、病死が多かったそうだ。

 映像を見た後、外の収容所の敷地を散策した。まず目に入ってくのはお墓である。(写真3) このようなお墓が数え切れないほどある。というか目立ったものがお墓くらいしかなく、バラック等は残されていなかった。書かれている数字も様々で、5000というものもあれば1000というものもあった。この下にはそれだけの人が埋まっていると思うといたたまれなかった。石を拾ってはそのお墓の前に置いて手を合わせての繰り返しであった。至るところに同じような巨大なお墓や、遺族が作ったと思われる個人のお墓が点在していた。慰霊碑もあった。私はここでアンネ=フランクのお墓を探していた。小さいものだとは知っていたのだが、どこにあるかはわからなかったため、くまなく探していると、こぢんまりとしたお墓を見つけた。アンネのお墓が小さいのは、ベルゲンベルゼン強制収容所がアンネを一犠牲者として捉え、特別扱いする事なく、これだけ多くの犠牲者が出た事を示すためであるという。強制収容所を4箇所回るとそれぞれの違いがわかってとても勉強になった。

 3つ目はニュルンベルク裁判記念館である。時期的に工事をしていて上から裁判所の中を覗くなどした。ここでは、裁判の様子と、その人の罪状とその後などを知ることができる。ほとんどのナチス関係者が死刑、もしくは無期懲役を言い渡されており、当然の結果であると思った。しかし、アドルフ=ヒトラーは妻とともに自殺、ゲッベルスやヒムラーも自殺しており、この裁判では裁かれていない。もし裁かれたとしても、死刑であっただろうが、彼らの言い分を聞いてみたかったものだ。残されたものは、自分たちが重大な罪を犯していたという事をわかっていたとしても、結局は、ヒトラーの指示でやっていた事で、自らの意思で自分たちを取り巻く環境が正しいとは最初から思っていなかったはずだ。戦争は正気を失わせてしまうものなのだ。

 話は脱線してしまうのだが、この翌日訪れた帝国党大会会場文書センター(ニュルンベルクにあるナチスの党大会の会場に隣接する博物館)で若い受付のお姉さんが、日本語で、「カードを差し込んで」と言った。ん?と思った私は「え、今日本語喋りました?」と聞くと、「私日本にいたことがあって、日本語は少しだけできるの。昨日裁判所記念館に来ていたでしょ?その時、日本語が聞こえたからあなたのこと覚えていたの。」ときれいな日本語で話してくれた。つまり、ニュルンベルク裁判記念館の受付のお姉さんと帝国党大会会場文書センターは同じ人であったのである。こんな出会いもあるのだなあと思うと同時に、ドイツでは戦争の記憶を残すための施設が連携されていて、それに若い方々もたくさん携わっている事を知った。

 今回の旅を通じて、私は思いついて行って良かったと感じている。ロシアとウクライナが戦争をしている時で、その中でたびたび使われる「ナチス」という言葉。日本も戦争について今一度考えるべきなのではないか。それは、広島・長崎に原子爆弾を落とされたということや、沖縄にアメリカ軍が上陸した話ではない。自分たちが戦争で受けた被害の話ばかりするのではなく、自分たちがやったことである。ドイツは、ナチスが犯した事を包み隠さず公表し、反省している。その証拠に、国内の至る所に博物館があり、多くの学生が今も見学に訪れている。

 日本はどうだろうか。原爆ドームやひめゆりの塔などはあるけれど、それは自分たちが受けた被害を表したものである。日本国内に日本が外国人を攻撃した場所がないからと言ってしまえばそれまでであるが、もう少し自分たちがやった事を振り返る必要があるのではないか。おそらく日本の認識では、中国や韓国には謝罪済みで、もう今更することがないというのが現状かもしれない。しかし、学校で日本がやったことについて詳しく学んだことがあるだろうか。少なくとも私はない。せめて日本とその周辺諸国で共通の認識が持てるような教育をすべきなのではないかと思う。それができているのがヨーロッパであり、ドイツだと思った。

直井千鶴(慶應義塾大学文学部3年)

(写真1)アウシュヴィッツの遺品の靴
(写真2)ガス室内部
(写真3)お墓。HIER RUHEN 1000 TOTE APRIL 1945と書かれている。
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