シリーズ コロナ後5年の世界Ⅸ 「北京オリンピック競技場でデジタル人民元を披露する中国の狙い」

 フェイスブックが2019年にリブラ構想を発表した際、それが利用者20億人という「デジタル通貨圏」の可能性を秘めていることに各国の中銀は震撼した。通貨主権を奪われてしまう、デジタル経済圏ができれば国家の主権が侵され経済のコントロールができなくなると、中銀はあわててリブラ・プロジェクトを拒絶した。
 では、中央銀行はどうすべきか。日米欧や中国など世界の66カ国・地域の中央銀行の約8割が現在、何らかの中銀デジタル通貨(CBDC)の作業に取り組んでいるが、実際に動き出しているのはいずれも新興国だ。なぜか。実は通貨主権と言いながら通貨主権を守り切れている国は数えるほどしかない一方、金融包摂が進められるという利点があるからだ。
 その意味で主要国の中で中国が逸早くCBDCの実験を始め、22年の北京オリンピックの時には選手村や競技会場で外国人選手らも含めてデジタル人民元で買い物をできるようにするというのは特異というべきだろう。オリンピックでデジタル人民元を世界にお披露目するという儀式を経て、22年にも正式に発行するとみられる。
 なぜ中国はデジタル人民元の導入を急ぐのか。
①中国ではアリペイ(支付宝)とウィーチャットペイ(微信支付)という2つのスマホ決済の巨人が事実上の「デジタル経済圏」をつくってしまっていることが指摘されなくてはならない。アリババ経済圏がそこで完結しているとすれば、共産党の支配が及ばないだけでなく、金融政策の独立性も危うくなる。つまり、アリペイなど民間の役割を縮小させなくてはならないと考えていることになる。
②22年秋には、5年に1度の共産党大会がある。今の勢いでいけば習近平の3期目が始まる。だが、それは毛沢東の唱えた「共同富裕」を目指す社会であり、鄧小平が定めた天安門事件後体制とはまったく異なる社会への大転換なのだ。真新しい社会には真新しい人民元が必要になる。それがデジタル人民元という位置づけになる。
③そして、リアルタイムで経済状況が把握でき金融政策に機動性がもたらされる期待がある。
④加えて、でき得れば、人民元の国際化への寄与ができないかというものだ。
こうした情況を考えれば、民間任せの危うさを避けるため「バックアップ」として中銀デジタル通貨というよりも、ある程度浸透して威信が保てなくてはならないことになる。
 通貨主権の確立には、暗号資産(仮想通貨)を徹底的に締出す措置をとった。海外の取引所がインターネットを介して中国国内でサービスを提供することも違法で刑事責任を課す。ほぼ偽札の扱いだ。
 中国版CBDCは中央銀行が直接発行するのではなく市中銀行が提供するアプリ上で数分で開設でき発行される。いわゆる間接発行である。デジタル人民元の設計としては、銀行口座とデジタル財布が紐づけられているかどうかや、利用者の信用によって1回の支払いに使える上限額は2000元、5000元、5万元、無制限と4段階に分けられており、これにより旅行者から法人までに対応できる。
 小口をとってみれば、当然、スマホ決済の「アリペイ」などとは同等かそれ以上の利便性がなくてはならない。デジタル人民元の決済はスマートフォン上のデジタル財布に表示した2次元バーコードを店員がスキャナーで読み取るだけ、数秒で終わる。同等の簡便さがある。それだけではない。デジタル人民元の決済は災害時などにも機能する。それは近距離無線通信規格「NFC」を使った支払い機能が搭載されているからだ。
 だが、アリペイはeコマースや「余利宝」(MMF)などのサービスとリンクしていて使い勝手が良い一方、デジタル人民元では匿名性がなくなるので、普及は極めて低いのではないかとの見方も少なくない。中国金融改革研究院の劉勝軍も、導入1年後のデジタル人民元はモバイル決済全体に対して5%に満たないと予想している。
 確かに、預金者が銀行預金を一斉にデジタル人民元に切り替え、金融システムが弱体化するような本末転倒のことがあってはならない。しかし、政府はアントに対して金融持ち株への転換をもとめ、そのサービスの縮小を強要する一方、市中銀行などにアリペイの開発したビジネスモデルの採用を促しているのだ。匿名性のなさはモバイル決済でもすべて中央清算システム「網聯」経由であり、現状と変わらない。とすれば、5年後にはモバイル決済全体に対して50%を超えていても不思議ではない。アントの上場を差し止めた一つの理由はアントの事業がデジタル人民元の出現によって縮小するリスクを投資家に回避させるためと見ることもできる。
 人民元の国際化への布石として、人民銀は、傘下のデジタル通貨研究所や人民元の国際銀行間決済システム(CIPS)とともに、ドル決済の機関、国際銀行間通信協会(SWIFT)とデータや技術で協力すべく合弁会社を設立した。米中対立はリアルであるにせよ、CBDCの相互交換での標準設定などでは協力余地が大だということだ。デジタル人民元の国際化の進展は5年後ではわずかだろう。
高橋琢磨(元野村総合研究所主任研究員)

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