名前に宿るアイデンティティ 『千と千尋の神隠し』から考える

♢「いまからおまえの名前は千だ。いいかい、千だよ!」
 ロンドンのコロシアム劇場で、舞台『千と千尋の神隠し』を観た。イギリスの大学院に進学することが決まり、渡英して間もなくの休日だった。映画からそのまま抜け出てきたような千尋役・川栄李奈さんらの演技に魅せられ、拍手と歓声に包まれる会場……。子どもの頃から何度も繰り返し辿ってきた物語だが、今回は特別な感情で観た。湯婆婆が、じゃらじゃらと宝石の指輪に飾られた手で、千尋の名前をきゅっともぎ取ってしまう。「ぜいたくな名だね」、「いまからおまえの名前は千だ。いいかい、千だよ!」あまりにも有名なこのセリフが、この日ずっと脳内にこだました。名前をめぐって、考え込んでしまう出来事に遭ったばかりだったのだ。
 「あなたのイングリッシュ・ネームをこの紙に書いて」。大学院で学ぶ留学生向けに開かれた、学術英語の講座に参加したある日のこと。イギリス人の先生が教室を歩きながら、学生たち一人ひとりにイングリッシュ・ネームを聞いてまわった。教室の9割を中国語話者の学生が占め、慣れないアジア系の前を呼ぶのに苦労していたのだ。ライアン、ステファニー、ブルース、ヴィヴィアン……と、確かに多くの学生は英語名を持っていた。
 先生は私のところにも来て、イングリッシュネームを尋ねた。でも、私の名前・美紀に英語名はない。いま即興で作るか……?それとも、ミッキーです、とでも言おうか……。一瞬、悩む。結局、「イングリッシュ・ネームは、ないんです」とだけ、答えた。「ああ、そう」と先生。気の小さい日本人なので、いつもならすかさず「ソーリー」と言ってしまうところだが、このときはなんだか、ごめんなさいと謝ることは、なんとなく憚られた。

♢「湯婆婆は、相手の名を奪って支配するんだ」
 舞台が展開していくとともに、学校で抱いたモヤモヤとした気持ちは確信に変わった。英語名を名乗ることで自分の名前が「奪われる」ような気がして、なんだか怖くなったから、構えたのだと思う。
 振り返ってみれば、家族の駐在に帯同して暮らした南アフリカでの生活の影響が大きい。イングリッシュ・ネームは、イギリスによる統治を経験した南アで、植民地主義やアパルトヘイト(人種隔離)政策を彷彿とさせるものの一つだ。ネルソン・マンデラの「ネルソン」もイングリッシュ・ネームで、入学の初日に学校の先生からつけられ、以後その名前で呼ばれたら返事をするよう指示された。マンデラは自伝で、親からもらった名前は「ロリシュラシュラ」という現地語・コサ語の名前だと明かし、こうつづっている。「白人はアフリカの名前を発音できないか、しようとせず、アフリカ風の名前を持つことは野蛮だとみなしていました」。「英国の思想や文化、制度が自動的に優れているものとみなされていて、アフリカの文化などというものは存在しませんでした」。

マンデラの自伝


 1930年代のアジアでも、植民地政策と名前の強制は密接な関わりを持っていた。当時、日本が支配していた朝鮮半島では、「皇民化政策」の一環として、そこに暮らす人々の名前を日本風に変えさせる創氏改名が押し付けられた。
 現代の日本でも、名前は奪われる。結婚すると、どちらかは氏を変えなければならない。両者とも望むなら、夫婦で同じ姓を名乗ることは素晴らしい。でも、本当は双方とも自分の姓を使い続けたいケースではどうだろう。
 ハクは、千尋に「湯婆婆は、相手の名を奪って支配するんだ」と明かす。「相手の名を奪って支配する」という言葉は、ずっしりと重い。

♢「名を奪われると、帰り道がわからなくなる」
 海外のコーヒースタンドでは、注文するとき「あなたの名前は?」と聞かれ、紙コップに名前を書いてもらえることがある。私の「美紀」という名前は比較的海外でも通じやすいシンプルな名前だが、英語圏ではMicky、仏語圏ではMichyとつづられ、たまにNickyと間違えられる。
 イギリスでコーヒーを注文するとき、混んでいないときは、「美紀です、M・ I・ K・ Iで、美紀」とスペルも伝えるようにしてみた(もっとも、現地語の名前を大切にする南アでは、コーヒーショップでも、スペルを店員から確認してもらえることが多いのだが)。すると、日本人なの?と気づいてくれる人や、MIKIは日本語でどういう意味なの?と聞いてくれる人もいて、話が広がることもあってうれしい。郷に入っては郷に従えというし、お邪魔している立場だ。もちろん、現地の文化も価値観も大切にしたい。だけど、名前は、名前だ。
 劇中では、「名を奪われると、帰り道がわからなくなる」との忠告もある。まだまだ海外での生活は続くが、自分の名前も、近くにいてくれる人の名前も、一つひとつを大切にしたい。自分を見失ってしまわないように、そして周りの人たちを迷子にしてしまわないように。
神谷美紀(元東海テレビ記者)

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