私は2002年から数年、NHKのラジオ部門を担当した。
その中で痛恨の思い出がある。時はイラク戦争の勃発寸前。
世界はイラクの大量破壊兵器の存在をめぐって激しい論戦が続いていた。
我々も開戦に備えて泊まり込みを続けていた。
アメリカを中心にした有志連合の攻撃が始まったのは2003年3月20日、明け方の5時過ぎだったように記憶する。
災害や大きな事件など、発生間際で情報が少ない時はテレビ・ラジオの同時放送でスタートすることがある。この時もそうだった。
現地からの生々しい報告がしばらく続いた頃だった。
外部対応する窓口から苦情が殺到しているという連絡が入った。
「ラジオ体操」は最強コンテンツ
「???。何だろう?」
それは「ラジオ体操」だった。
NHKのラジオ第1では朝6時半から10分間、「ラジオ体操」を放送している。
世界中が注視していたイラク戦争の開戦直後とあって、私は躊躇なく通常番組を休止して報道を続けていた。
ところが、お年寄りを中心に多くの人たちが、朝の体操をするためにラジオの前で待ち構えていたのだ。一日の大切なスタートを台無しにしてしまった。
確かにわずか10分間くらいラジオ体操を放送しても戦争の趨勢に変わりはないだろう。週に1回以上ラジオ体操をするという人は2000万人を超えるという調査もあるという。後にも先にも、あれほどリスナーからお叱りを受けたことはない。
私も歳を重ねて、今は犬との朝の散歩が日課だ。
公園で皆さんが元気な声を出しながらラジオ体操をする姿を見て、あの朝のことを思い出すのである。
「ラジオ体操」は、今も変わらぬラジオ最強のコンテンツのひとつだ。
「ラジオ深夜便」余話
私が「ラジオ体操」で苦い思いをした時、ある戒めの言葉が浮かんだのを覚えている。社会部の大先輩から、それまで幾度も聞かされていた。
「ジャーナリストたる前に一市民であれ」
「報道の名を振りかざすような驕りを持つな」
この先輩のことも紹介しよう。
「ラジオ体操」と並ぶ人気番組に「ラジオ深夜便」がある。
1990年にスタートした長寿番組だ。
この「ラジオ深夜便」、実は報道一筋で生きてきたバリバリの事件記者が生みの親だ。前述した社会部の先輩である。
警視庁キャップや社会部長などを歴任したH氏。三億円事件や連合赤軍のあさま山荘事件など数々の難事件を手がけた。
それまでNHKのラジオは保守などのため深夜・未明の時間帯は放送を休止していた。しかし、昭和天皇の容体の悪化で一時的に24時間放送を実施した。
これをきっかけに恒常的なラジオの深夜放送が検討される。
こうした番組の開発や制作は通常、ディレクターと呼ばれる職種が担当する。
畑違いの場で責任者となったH氏は持ち前の感性を発揮した。
当時は民放各社の若者向け深夜放送が全盛期だった。
「ラジオ深夜便」はその正反対を行った。
“人々は心のオアシスを求めている”。これが合言葉。
OB・OGのアナウンサーのゆっくりとした口調。流すのはクラシックなど静かな音楽。歌詞のある演歌は禁止だった。古典や名著の朗読。病や障害を抱えながらも、前向きに生きる人たちの静かな語り。この「こころの時代」のコーナーも人気だった。
「眠れぬ夜のラジオ深夜便」の愛称で、今も中高年のリスナーを中心に根強い人気を誇っている。
次々に新機軸を打ち出したこの番組は菊池寛賞も受賞した。
受賞理由は「心やさしい番組を定着させるとともに、緊急時の速報などラジオの役割の再認識とメディアとしての可能性を広げた」というものだった。
このH氏、強面で見るからに事件記者である。
一方で「なるほどなるほどのHさん」と呼ばれ、みんなの話を大きく頷きながら本当によく聞く。乾いたスポンジのように情報や違った考え方を次々に吸い込み、自分のものにしていたのだろう。
発想は豊かで柔軟。他に先駆けて社会部にいち早くパソコンを導入した。
仕事には厳しかったが口癖は「原稿より健康」。
何が本当に大切なのかをズバリと指摘した。
複眼的な視点の大切さを、この先輩から学んだ。
長い歴史で、ラジオは名アナウンサーら多くの「スター」を生んだ。
その一方で、ラジオに新風を吹き込んだ畑違いのH氏も、ラジオ史に残る人物である。
未完のラジオ
ラジオがオールドメディアと呼ばれるようになって久しい。
しかし、私は決して「オールド」とは思っていない。
災害時などにラジオが果たす役割は変わることがない。
インターネットの普及でZ世代の若いリスナーが増えているという興味深い調査もあるらしい。スマホでラジオを聴ける。ラジオを聴きながらスマホが操作できる。若い世代との親和性が背景にあるという。
まだまだ無限の可能性を秘めるオールドメディア風のニューメディア。
2世紀目に入るラジオをどうぞよろしく。
島津敏雄(元NHK記者)