卓越した経営者、稲盛和夫さんを悼む

 京セラの創業者で、8月に90歳で亡くなった稲盛和夫さんのお別れの会が11月28日、京都・宝ヶ池の国立京都国際会館で行われた。私も参列して白いカーネーションを献花台に供えながら、取材で会った日々を思い起こしていた。
会場の祭壇には稲盛さんの背広姿ではなく、海外旅行先で撮ったというくつろいだ笑顔の写真が掲げられていた。別室では足跡を振り返る写真パネルや、「挑戦」「利他」「勤勉」「熱意」といった稲盛さんが説いて来た「心を高める 経営を伸ばす」ための12の言葉と説明を添えたパネルが展示されていた。稲盛さんの逝去を惜しむ参列者があとを絶たず、会場には「込み合っているので順序よくお進みください」と異例の表示が出されたほどだった。
 私は80年代初め、朝日新聞京都支局(現総局)に配属され、経済記者として稲盛さんを追い回したり、その後も、週刊誌「AERA」の執筆で集中取材したり、稲盛さんには何度も接する機会があった。お別れの会の会場になった京都国際会館も忘れられない記憶の場所の一つだ。
 毎年11月10日、国際賞「京都賞」の授賞式が同会館で行われる。1984年、稲盛さんが私財を拠出して設立した稲盛財団が翌年から贈り始めた。先端技術、基礎科学、思想・芸術の3部門に貢献した人々を顕彰する賞で、理念は「人のため、世のために尽くすことが人間として最高の行為である」
 稲盛さんの人生観に基づいている。ノーベル賞が特定の業績を対象としているのに対して、京都賞は業績とともに人物を讃えるのが大きな特徴だ。哲学、音楽、美術など思想・芸術部門を設けているのも特徴だ。「人類の未来は、科学の発展と人類の精神的深化のバランスがとれて安定したものになる」という稲盛さんの考えによる。ノーベル賞にこの部門はない。
 賞金は当初4500万円だったが、1995年に5000万円に増額、さらに2006年度からは倍増の1億円とした。因みに、前年にノーベル賞が約1憶1600万円に増額している。これほどの多額の賞金の賞は多くはないだろう。国内より海外での評価が高いという。賞の創設に尽力したノーベル財団顧問でもあった政治学者矢野暢氏(故人)から、「ノーベル賞を上回る賞金にしたかったが、ノーベル財団に遠慮してほしい、と言われた」との裏話を聞いたことがある。財団はノーベル財団に創設記念特別賞を贈った。
 稲盛さんが賞の創設を思い立ったのは81年、49歳の時に「伴記念賞」を受賞したのがきっかけだった。伴五紀・東京理科大名誉教授(故人)が発明で得た決して多くはないお金で、他人を顕彰している姿に打たれたから、と稲盛さんから聞いた。「私はたまたま金持ちといわれるようになったが、私物化するのは自分の人生観に合わない」
 授賞式に何回か招かれたが、いつも心を打たれた。例年、大友直人指揮、京都市交響楽団による「京都賞祝典序曲」(越部信義作曲)で開幕、金剛流の奉祝能「加茂」が会場をおごそかな雰囲気に包む。受賞者たちの授賞理由、生い立ちや人生観が映像などで紹介されるなど一連のプログラムが進むが、稲盛さんの出番はない。壇上の隅にすわっているだけ。顕彰者の審査にもかかわっていない。稲盛さんは授賞式を毎回楽しみにしていたようだが、18年を最後に出席していなかった。
 一代で世界的な電子部品メーカー、京セラを育んだのを始め、通信会社第二電電の設立や日本航空(JAL)の再建などに経営手腕を発揮し、実績を残した。組織を小集団に分ける「アメーバ経営」や一般常識にとらわれない「京セラ会計学」などの経営手法とともに、何より「京セラフィロソフィ」と呼ぶ独自の人生観、経営哲学が大きな特徴である。「人間としての正しい生き方、あるべき姿」という根本の問いから生み出した仕事や人生の指針で、一口に言えば「心をベースにした経営」である。「利他の心」も考え方の核心だ。「経営者が立派な会社経営をしたいと思うならば、自分のことだけでなく、回りのことを考えて判断すべきだ」という意味合いだ。ある講演会で「宇宙にはすべてを進化発展させていく意志がある。運を開くには愛と誠と調和に満ち満ちている宇宙の流れに調和することが欠かせない」などと話すのを聞いたときは、若造の私に理解し難かったが、稲盛さんの頭のなかではきちんと整理されていることが後年になって分かった。
 社内では「コンパ」と呼ぶ社員らと車座になって、何度も何時間も「フィロソフィ」を説き続けた。各地に製造拠点を新設する際には、決まって和室を設けるよう指示したという。稲盛さんは自らの考えを「心を高める 経営を伸ばす」はじめ55冊もの本にまとめている
 こうした人生哲学、経営についての考えは挫折続きだった青春時代や、その後の苦労を重ねた企業経営の実体験から生み出された。旧制中学の受験を2度失敗、13歳のときには肺浸潤で寝込んだ。このころ近所の人の薦めで「生命の実相」(谷口雅春著)を読んだのが、宗教や哲学に関心を寄せるきっかけになった。後に65歳のとき、剃髪して京都・八幡市の臨済宗円福寺で得度している。僧名は「大和」。
 大学も志望の大阪大医学部をすべり、地元の鹿児島大工学部に進んだ。優秀な成績で卒業したが、折しも就職難。指導教授の紹介で京都の碍子メーカー、松風工業に技術者として就職した。セラミックスの研究を担当したが、技術開発の方針を巡って上司と衝突し、3年足らずで退社。1958年、稲盛さんを慕う部下や上司も加わり、8人で新会社「京都セラミツク」(現在の京セラ)を創業した。志を確かめ合うため、指を切って連名で血判状を残した。会社は成長していくが、あまりの猛烈経営ぶりに脱落する社員も相次いだ。よくカミナリを落とした。「仕事にかける情熱はすごい。目標を定めると死に物狂いで考え抜く。寝ていても色がついて見えるようになるそうだ」と近しい経営者から聞いたことがある。自分が努力して克服してきたことができないことに納得がいかなかったようだ。後年、蒼白な顔をして社長室から出てくる社員を目にしたこともある。
 通信事業の自由化に伴って84年に、第二電電企画(後のDDI、現KDDI)を設立して通信事業に乗り出したときは、失礼ながら気がふれたのではないかとさえ思った。何しろ電電公社の独壇場だった通信業界にアリが襲いかかるような大胆な挑戦だったからだ。稲盛さんは米国などに比べ通信料が高いと感じていて「競争がないのはよくない」と思っていた。参入を決断するまでには「動機善なりや私心なかりしか」と半年間も自問自答したと話している。
 稲盛さんは卓越した経営者だった。大胆さと繊細さを兼ね備え、情と理がバランスした経営者とお見受けした。混迷して将来も見通せない今こそ、発信し続けてほしい方だった。
=写真は京都国際会館で開かれた「稲盛和夫お別れの会」(京セラ提供)
七尾 隆太(元朝日新聞編集委員)

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