”伝説の商社マン“J.W.チャイ元伊藤忠商事副社長が遺したメッセージ~経営者は10倍勉強、そしてトップダウンで決めよ~ 

 2023年も暮れの12月13日、紀尾井町にあるトヨタ自動車のゲストハウスに招待されました。トヨタ自動車の小林耕士取締役番頭(前副社長)が主催する「チャイさんを偲ぶ会」です。他に作家でチャイさんと親交の深かった佐藤正明氏とチャイさんの番組「伝説の商社マン」を2001年に制作した森永公紀元NHK専務理事が呼ばれました。この小林氏はGM/トヨタが提携した当時、まだ若手ながらトヨタ側で交渉の事務局長をされており、以来ずっとチャイさんに心酔されていた方です。チャイさん及びトヨタの交渉トップだった豊田英二氏のエピソードに花が咲きました。チャイさんは提携交渉が継続中だったトヨタ自動車と米国フォード社との交渉は行き詰まるだろうと読んで代案としてGMとの提携を提案したと言われています。
 1982年3月、GM会長だったロジャー・スミス氏と豊田英二氏にチャイさんが加わり3人だけでニューヨークで密談した時に、お互いが自らの主張を繰り返すばかりで中々折り合わず、チャイさんがYou deserve each other.(文字通りは「お互い様」だが「いい加減にしろ」というニュアンス)と発言した逸話がチャイさんご自身の口からNHKのドキュメンタリー番組の中で語られています。同番組では「お互い出世とは無縁の2人」と冗談を交わしながら若い頃からチャイさんと付き合いの深かった奥田碩元トヨタ自動車会長も出演しチャイさんの事を褒めちぎっています。
私もニューヨーク駐在時代に、後にトヨタ自動車の副社長・副会長になられた中川勝弘氏(ハーバード大ケネディスクール卒)がまだ通産省におられた頃に柴生田北米課長を伴い来米され、チャイさんと一緒にNYペニンシュラホテルで会食した折に、中川氏からは日米自動車交渉について、またチャイさんからはGM/トヨタの提携について色々聞かせて貰った思い出があります。このお2人の来米目的はフロリダでタイムワーナーが展開する最先端スマートホームタウンの見学でしたので、私がそのアレンジをしフロリダまでアテンドしました。
 話を私が担当していたタイムワーナーに戻しますと、1997年当時タイムワーナーはフロリダのオーランドでFSN(フル・サービス・ネットワーク)という未来型スマートハウスの構想を実験していました。家庭に多チャンネルテレビ以外にネット接続、電話や電力などあらゆる回線が接続されてスマートハウスを構成するという実験です。今になれば当たり前となっているサービスですが、タイムワーナーはこれらのサービスの一体化を既に20年以上前から提案していました。
実は伊藤忠がタイムワーナーに巨額の出資をするに当たり、この出資の実現の道程は困難を極めました。タイムワーナーは伊藤忠からの6憶ドルの出資以外にもう1社、できれば日本のメーカーから同等額の出資を希望していました。最初に伊藤忠が当たったのはパナソニックでした。ところがパナソニックは理由を明確にせずに誘いを断ってきたのです。理由は後で判明しますが、パナソニックはその時点ではMCAユニバーサルへの単独出資を既に決めていたからでした。パナソニックに断られた伊藤忠は検討した結果、東芝に出資の話を持ち掛けようとの結論となりましたが、三井グループだった東芝にはしかるべきパイプがありません。そこで相談したのが日頃から親交の深かったNHKの島桂次会長(当時)です。島会長は早速、東芝の青井社長に本件を繋いでくれましたが、青井社長は超多忙で案件の説明をする時間が取れません。やっと会えるとなったのが出張先のパリでした。そこを目掛けて伊藤忠の室伏社長が東京から、チャイさんとタイムワーナーのスティーブ・ロス会長(前出)及びチャイさんの腹心の松見芳男氏がニューヨークからロス会長のプライベートジェットを使ってパリ入りします。
 松見芳男氏は私の5年先輩に当たりますが、長年米国に在住しチャイさんの腹心であり参謀を務めた「影の立役者」です。レーガン政権からそれに連なる共和党幹部に太いパイプを持ちFCC(米国郵政省)長官が時々伊藤忠ニューヨークオフィスに立ち寄ってくれるほどの間柄を築いていました。
 少し横道に反れますが、1986年の電気通信事業法の改正(通信の自由化)を受けて民間企業の通信ビジネスへの参入が認められるようになり、伊藤忠は日本発の衛星ビジネスのJSAT及び0061と言われた第2KDDの大型プロジェクトの取り組みを決断。そこで合弁のパートナーに選んだのがGMヒューズやパシフィック・ベル(米国)、ケーブル&ワイヤレス(英国)などの外国企業でしたが、日本政府はこの<異端>グループに対して中々許認可をおろしてくれない状況が続いていました。にも拘わらず最終的に免許の取得にまで漕ぎつけたのは、松見氏が深く食い込んでいた米国政府(レーガン政権)と英国政府(サッチャー政権)が全面的にこの取り組みをサポートし、日本政府に「外圧」をかけてくれたからに他なりません。背景には米国伊藤忠のチャイさんとその下で米国政府との根回しに係わった松見氏の「暗躍」があったことは余り知られていません。
 さて話はパリに向かうロス会長のプライベートジェットの中。タイムワーナーが準備してきた日本語に翻訳された東芝宛の提案書を松見氏がチェックして腰を抜かします。よくあることではありますが、日本語が滅茶苦茶で意味をなしていません。そこで松見氏が翻訳を全面的にやり直す作業が必要となりました。パリのホテルリッツでは松見氏が一からやり直した手書きの翻訳をニューヨークにファックスし、それを日本語でタイプの上、出来上がったものをパリに再びファックスで戻して製本するという、今では考えられない作業が当時は必要だったそうです。
 プレゼンの結果、東芝もやろうとなったのは良いが、伊藤忠も東芝も社内での機関決定が必要です。日本の会社の社内許可、しかも前代未聞の6憶ドル出資の許可は通常何か月もかかります。案の定、役員会は蜂の巣をつついたような議論となり、反対意見もたくさん出てきた為に、両社においては最終的に室伏社長と青井社長のトップデシジョンで決定するしかなかったと聞いています。伊藤忠・東芝とタイムワーナー提携のお披露目は俳優のケビン・コスナーも来日して賑々しく1992年に催されましたが、タイムワーナーのロス会長は病気療養中で欠席となり、その後ロス会長の逝去を受けて会長になったジェラルド・レビン副会長が参加しました。
伊藤忠は同社の株式を1998‐99年に売却するまで8年間保有し続け、最終的には10億ドルにも及ぶキャピタルゲインを出した上で本プロジェクトは終結しました。株式の売却交渉は実質チャイさんとずっと長きに亘りタイムワーナーのアドバイザーを続けてきたエド・アブーディ氏(前出)の2人の間で纏められました。私もチャイさんの事務方を仰せつかってはおりましたが、チャイさんからは「本件のような大型で複雑なディールは自分が弁護士、税務専門家(tax lawyer)と会計士と相談しながらトップダウンで決める。君はその補佐をするだけで良い。」と言われ判断業務をさせては貰えませんでした。「このような案件をボトムアップ、つまりまず部下に検討させるようなトップなら即刻首だ。君もいつかそんな日が来るからよく見て勉強しておきなさい。」これがチャイさんの教えでした。チャイさんは常日頃から「日本の企業はボトムアップだから米国企業のスピードについていけない。勝つ為にはトップダウンしかない。だからトップに立ったら部下の10倍は勉強しないと駄目だ。」と持論を展開されていました。
 思い起こせばチャイさんは2001年の伊藤忠役員退任の挨拶で、「皆さんが注目しておくべきはブロードバンドである。ブロードバンドの時代が5年以内にやってくる。その時はビジネスのやり方が革命的に変化するので、今皆さんがやっている仕事の大半は無用の長物となる。ブロードバンドの時代に自分が生き残るすべは何か?今から勉強・研鑽をしておいて欲しい。」というメッセージを残されていました。まだガラケーが主流だった2001年にブロードバンドが革命を起こすと看破されていたのには驚かされます。正にチャイさんは「伝説の商社マン」と呼ばれるに相応しい方だったと思います。チャイさんの思い出は語りつくせませんが、この辺で責めを塞ぎたいと思います。(完)
木戸英晶(前アサツーディ・ケイ-ADK-取締役会議長)
(参考資料)松見芳男著「グローバル体験と思い出の人々(自分史)」

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