<シネマ・エッセー> 否定と肯定

映画の試写会に、監督や俳優が出演して作品について語ることはありますが、劇映画の<登場人物>が映画の試写前にスピーチするのは、珍しいのではないでしょうか。日本記者クラブで行われた『否定と肯定』の試写会には、この映画のヒロイン、米エモリー大教授、デボラ・E・リップシュタットさん(70)が来日して、実際の裁判と作品について語ってくれました。

「私たちは歴史的な事実(Fact)と意見(Opinion)との違い、さらに事実と嘘(Lie)との違いを厳しく区別し、常に真実を追求しなければなりません。」と冒頭に述べ、どれほど辛抱強く「事実」と「証拠」を積み上げ、「嘘」を排除したかについて、当事者の一人として、熱く語りました。

リップシュタットさんはアメリカ・ジョージア州アトランタにあるエモリー大学で歴史を教えるユダヤ人教授。イギリスの出版社から出た彼女の著書「ホロコーストの真実」について、ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺は無かったと主張するイギリス人歴史家、デイヴィッド・アーヴィングが、リップシュタットさんを名誉毀損でイギリスの法廷に訴えたことから、2000年にこの裁判劇がスタートします。

イギリスの法廷では、訴えられた側に、自分の”無罪”を立証する責任があり、
リップシュタットさんはこの裁判に勝つために、裁判費用の募金運動を始めると共に、ロンドンで強力な弁護団を組織して法廷闘争にのぞみます。

弁護団の戦術は、アーヴィングの著述や日記から、彼の片寄った反ユダヤ主義とヒットラー擁護の主張の誤りを証明するとともに、アウシュビッツに残されたユダヤ人虐殺の立証に重点を置きます。

2000年4月11日の歴史的判決の日まで、息詰まる法廷劇が続くわけですが、映画によくある殺人などをめぐる刑事裁判ではなく、民事裁判の裏側にあるキメ細かい戦術・戦略の組み立て方と、登場人物それぞれの個性の強さが、歴史・法廷劇の面白さを味あわせてくれました。

リップシュタットさんのことで思い出すのは、同じユダヤ人で哲学者だった
ハンナ・アーレント(1906年 ~ 1975年)のことです。ナチスによるホロコーストの最重要人物と目され、戦後、アルゼンチンに潜伏中捕まったアイヒマンの裁判で、彼女が雑誌『ニューヨーカー』の特派員としてこの裁判を傍聴して書いた『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』の中で、イスラエルに裁判権があるのか、アルゼンチンの国家主権を無視して連行したのは正しかったのか、裁判自体の正当性に疑問を投げ掛け、同じユダヤ人の中で激しい議論を巻き起こしたことです。

そして、アイヒマンを極悪人として描くのではなく、ごく普通の小心者で、取るに足らない役人に過ぎなかったと描き切っています。取るに足らないごく普通の小心者が、時によっては極悪人に変化するかも知れない。このこともまた、洋の東西と時代を問わず、決して「否定」出来ない事実ではないでしょうか。
磯貝 喜兵衛(元毎日映画社社長)

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