新聞の転回点だった2014年 ―朝日と読売― Ⅱ

 朝日新聞による従軍慰安婦報道を検証する第三者委員会の報告書が、先月(12月)22日に公表された。虚偽だった「吉田証言」の誤報を放置したうえ、2014年の8月に過去の記事を取り消した際に謝罪をしなかったことに対して、「読者の信頼を裏切る」と批判する内容だ。11月には、東京電力福島第一原発の吉田昌郎元所長の「吉田調書」をめぐる朝日新聞の報道について、同社の報道と人権委員会が「公正で正確な姿勢に欠けた」との見解を発表しており、朝日新聞が受けたダメージは大きい。
 本欄では前回、原発の「吉田調書報道」について、「特定の物の見方を客観報道に優先させた誤り」と書いた。第三者委員会による今回の慰安婦報道の検証でも、「思い込みや先入観」が働いたことが指摘されている。しかしこのコラムのテーマは、朝日報道の検証ではなく、「報道への過剰な価値判断の混入」についてである。論を進めたい。
 解散報道で読売新聞が先行した衆議院選挙は、与党の勝利で終わった。読売は投票日翌日の12月15日、さらに16日の社説で「重い信任を政策遂行に生かせ」「経済戦略の強化を最優先せよ」と書き、アベノミクスの継続を主張した。日米同盟強化を目指す安保法制整備、そして憲法改正論議を深めよとも説いている。読売の社論としては当然の展開であろうが、気になるのは、圧勝した最高権力者に対するメディアとしての注文がほとんど見らなかったことだ。わずかに、「与党に対する国民の支持は『野党よりまし』という消極的な面が強い」。「強引な政権運営は慎むことが大切だ」とあるくらいで、これは批評と言えるものではない。日本最大部数の新聞が安倍首相に「盛大な拍手」をしているのである。
 読売の論調の基本には、政治の安定があってこそ日本の発展はある、という考えかたがある。しかし政治の安定と、一体化に近いまでの政権擁護の姿勢は、決して同義語ではあるまい。政治の安定を願うあまり、政治の問題点をきちんと指摘しないのは本末転倒である。それは、社論であっても事実の積み重ねの中で鍛えられたものでなければならないという、ジャーナリズムの基本をおろそかにすることになる。
 前回も書いたが、原発や沖縄の基地問題などでは、社論と一般ニュースの取り上げ方がシンクロし、社論とは異なる社会的ニュースは取り上げない。扱っても小さいという傾向が目立ってきている。社論を基本にした一般ニュースの選択による紙面では、情報の幅が狭くなりやせ細ってくる。

それでは、ただでさえ部数が減っている時代に、新聞が生き残るのは難しいのではないか?
 今、読者が新聞に求めているものは何だろう。それは、過剰な価値観によって味付けされた「論」や、価値によって再構成された「事実」ではなく、日本と世界の現実を理解するための手がかりである。その期待に応えているだろうか。
 例えば、今回の選挙は「アベノミクスが争点」とされた。しかし、そもそも経済学的に「アベノミクス」は争点と言えるものだったのか。メディアとしての検証があいまいだった。
小泉純一郎首相時代の、「郵政民営化選挙」でもそうだった。政権側は「郵政民営化が日本の未来を決める」とアピールしたが、果たしてそうだったのか。今振り返れば、「一時の熱狂」のスローガンだったに過ぎない。
 今回、日本の将来に本当にかかわるのは、集団的自衛権をめぐる一連の問題だろう。だが争点としては盛り上がらなかった。それはメディアにも責任がある。東アジア情勢の緊迫化、中東の一部地域の「液状化」とも言える混乱。それと日本人の生活との関連を、日ごろからの紙面で、事実に即してフォローする。その中に、集団的自衛権の問題を位置づけて伝えていれば、国民的議論を盛り上げることは出来たはずだ。「そういうことは考えることも嫌だ」という、「反論不能の殻」に閉じこもることもなく、と言って、「日米同盟強化しか生きる道はない」というある種のイデオロギーを楯にするのでもない議論。それを行うのが新聞の本来の役割である。
 新聞が取り上げるべき課題は他にもある。野党が取り上げた「格差是正」。総論で反対する人はいないだろうが、では所得の再分配をどう具体的に行うのか。諸外国の例も知りたい。そして今の日本の財政事情。誰だってこのままでは、いつか「Xデー」が来ることは分かっている。一体、「日本が維持すべき暮らし」とは、どのレベルなのか。
   こうしたテーマを取材して記事にするには、過剰な正義感や思い込み。あるいは権力との一体感は不要である。そして、それが「読まれる記事」だと考えている。
高瀬仁平(ジャーナリスト) 

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