ミニゼミレポート(第1回) 高市発言から放送の自由を考える

 2017年5月17日、放送の自由をテーマとして、今年度第1回のミニゼミが慶應義塾大学三田キャンパスで開かれた。17名の現役学生に加え、当研究所卒業生の6名のジャーナリストと2名の担当教授が出席した。昨年2月の高市早苗総務大臣の停波発言を手がかりにして、放送の自由についての活発な議論が交わされた。ここではその議論の内容を、いち学生の視点からふり返ってみる。

 まず今回のミニゼミでは、放送の自由を脅かす事例として「高市発言」が取り上げられた。これは高市早苗総務大臣による、昨年2月の衆議院予算委員会での発言を指す。放送局が政治的公平性を欠く放送を繰り返した場合、放送法第4条(後述)の違反を理由に、電波停止を命じる可能性があると言及したのだ。「行政指導をしても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにはいかない」と高市氏は述べた。前年の9月にTBSテレビ『NEWS23』の岸井キャスターが、「メディアとしても(安保法案の)廃案に向けて声を上げ続けるべきだ」と主張したことを受けてのことである。「(違反については)誰が判断するのか」という民主党の奥野氏の質問に対しては、「そのときの大臣が判断する」と答えた。
 政府が放送に介入しようとした例は高市発言だけではない。1993年の「椿事件」もまた、放送の自由を考える上で重要な出来事の一つである。それは当時の全国朝日放送(いまのテレビ朝日)の椿貞良報道局長が、日本民間放送連盟の非公式の会合で問題発言をしたことが発覚したことに端を発する。「(7月の総選挙で)非自民政権が生まれるように報道せよと指示した」、「『公正であること』をタブーとして、積極的に挑戦する」などという発言が、産経新聞のスクープにより明らかになった。これを受けた衆議院逓信委員会で、当時の郵政省(いまの総務省)の江川放送行政局長は、「(政治的公平は)最終的に郵政省において判断する」と答弁した。椿氏のこの発言が引き起こした一連の騒動が「椿事件」である。これがきっかけとなり、それまでほとんどなかった放送局への行政指導が一挙に増加することになる。

 これらの二つの事例において問題となるのは、停波や行政指導の根拠とされた放送法第4条の解釈だ。政府によれば、この条文は法的拘束力をもつものなので、違反した場合には制裁が科されるという。しかし、放送局はこの条文を倫理規定として捉えており、放送法の違反を理由にした政府の介入は不当であるとしている。
 学者たちの通説でも、この条文は倫理規定であり、やはりその違反を理由に停波を行うのは難しいという。放送法全体の理念が、放送局の「自主自律」を実現することに他ならないからだ。放送法が放送局を縛るためのものだとする政府の解釈は、この理念と矛盾している。

 以上のことを踏まえて、放送局は政府の干渉に対しどう対処すればよいのかが、今回のミニゼミでは中心的に議論された。
 まずメディア法を専門とする担当教授から重要な指摘があった。政府が4条を法規範性のあるものとして扱えば、たとえその解釈が誤っていても、政府の介入は事実上正当化されかねないという。「裁判所は政府よりの判決を出しがち」(当該教授の発言)であるため、仮に停波が行われ裁判となっても、放送局が必ず勝つという保証はない。それに実際に停波が為されれば、その委縮効果は計り知れず、自主規制という形で放送の自由が脅かされるのは必至だ。
 ジャーナリスト側からは経験に基づく貴重な意見があった。それは、政府からの介入を未然に防ぐために、放送局は充分用心するべきだというものだった。たしかに、用心が行き過ぎて自主規制となるのは望ましくない。しかし、政府からの批判を招きかねないような放送をしていては、放送局は自らの首を絞めることになる。そういう意味では、「岸井キャスターの番組内での発言は、わきが甘かった」(あるジャーナリストの発言)と言われても仕方がない。最終的には、経験を積んだ記者の現場の判断で、放送の自由と政治的公平との間のバランスが確保されるべきだろう。
我々学生は、放送制度の歴史をふり返ることにより、具体的な方策の提言をした。もともと現行の放送法は、電波監理委員会という放送をチェックする独立機関の存在を前提にしていた。これはGHQが日本の民主化政策の一環として用意したものだ。放送を政府の監視の外に置くことが目的だった。しかし、GHQによる占領が終わるとすぐに、当時の吉田茂内閣はこれを解散してしまった。
放送制度のこうした経緯を踏まえ、我々学生は、政府からの介入を排除するためには、電波監理委員会に取って代わる、公正取引委員会のように強力な独立第三者機関を設置し、放送を監視させるべきだと主張した。もちろんこれには放送局にもそれなりの覚悟が求められる。もしこれが実現すれば、現状のような生ぬるい「自主自律」では済まされなくなるからだ。果たして放送局には、放送の自由の実現のために、外部からの厳しい監視を受け入れる勇気はあるのだろうか。それは今後の動向次第である。

 以上のように、今回のミニゼミでは放送の自由をめぐって学生、教授、そしてジャーナリストの間で白熱した議論を展開することができた。準備にあたっては、不充分なことや調査し残したこともあったりと、様々な反省点もあった。しかし、熱意をもってさえ臨めば、ミニゼミでは普段の授業では決して学べないものを得ることができると確信した。今回の経験は、次回以降のミニゼミのために、非常に実り大きいものであったことに疑いの余地はない。綿密かつ充分な用意をして、次回も議論に臨みたい。
なお、次回のミニゼミは7月5日(水)を予定している。
楠本大貴(文学部、倫理学専攻3年)

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