六輔と巨泉の死が残したもの

2016年の夏、日本の放送史に大きな足跡を残した同世代の人物2人が前後して世を去った。83歳の永六輔と82歳の大橋巨泉である。共に東京の下町で生まれ育ち、学歴も早稲田大学中退という2人は、得意分野や活躍の場は違ったが、遊びを仕事にする洒脱さや、反骨・反権威の精神という共通点があった。日本の放送、中でもテレビが大きく飛躍した時期だからこそ生まれた自由人だった。  浅草の寺の息子だった永は、日本の伝統文化・芸能に関心を寄せた。「忘れられた日本人」の著作で知られる民俗学者の宮本常一に大きな影響を受けている。テレビやラジオの番組で日本全国をくまなく旅し、そこから発信した。パーキンソン病になってからも仕事は止めずに、亡くなる直前まで出演した。 巨泉の実家は両国のカメラ店。戦後解禁されたジャズに魅せられて、大学在学中からジャズ評論家として活躍した。出世作となった「11PM」では、バニーガールを始め「楽しいアメリカ」を茶の間に見せた。日本テレビ、TBSなど民放を中心にテレビの黄金時代にいくつもの高視聴率番組を手がけたが、50代半ばで「セミリタイア」を宣言、放送界とは距離を置き、一年の大半を海外で過ごした。 得意分野や晩年の仕事への距離感は対照的だが、2人とも学生時代から放送界で、「自分が楽しいこと」を続けるうちに、気が付くと業界の中心にいた。 永の出世作となったNHKテレビの「夢であいましょう」のビデオを見ると、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」でコンビを組んだ作曲家・中村八代との、「音楽が楽しくてたまならい」姿が見られる。 「クイズダービー」や「世界まるごとHOWマッチ」を企画し、自ら司会もした巨泉も同様だった。巨泉の功績の一つは、「お色気」「マージャン」「競馬」など、それまでは「公共の電波」に乗せにくい領域のものをスマートに番組化したことだ。 そんな、「趣味の番組化」が、高視聴率で長寿番組となったのは、テレビがまだ若かったためだ。民放の視聴率競争はあったが、番組の世帯視聴率が分かるだけで、今のように、視聴者の年齢、性別、一分ごとの数字が明らかになるような精密なものではなかった。テレビは娯楽の王様で、だからこそ巨泉の万年筆のCMコピー「はっぱふみふみ」が流行語になった。 永もまた、放送の表現の可能性を大きく広げた。明治の近代化以降、日本の文化はインテリによる「書く文化」が上位に立った。そこから見れば、テレビなどは「電気紙芝居」。ラジオのトークも評価されず、永も「舌足らずのおしゃべり男」とある有名作家に切り捨てられた。永は反論せずに、ラジオ番組を通じて、全国各地の無名の人々の話を伝えた。後にTBSラジオでの「語り」で菊池寛賞を受賞する。 「遊びが仕事」なのだから、楽しくなければ止める。永はある時期からテレビを離れた。放送開始80周年の2005年、永にインタビューした時に、テレビが嫌いな点を5つ挙げてもらった。①災害や事件で同じ映像を繰り返し流し過ぎる②衝撃映像さえ撮ればいいと考えている③民放の場合、広告代理店が力を持ちすぎている④作り手が勉強不足で出演者をテレビの中からだけで探し、世の中の現実とずれている⑤テレビが市民に接する姿勢が傲慢である。 「普通の人」が考えていることを、テレビを知り尽くした達人が語るのに驚いた。 巨泉には、セミリタイア宣言をした90年代後半、「一時帰国」の時に、日本の今のテレビをどう思うか聞いた。一つの企画が当たるとどこも横並びとなる民放に対して厳しかった。「視聴率だけで番組を作ると、どうしても社会の下の方に水準を合わせることになる。気の利いた人がそっぽを向いて、アメリカの地上波みたいになるよ」。実に率直だった。 「視聴率至上主義」には反対だった巨泉が手掛けた番組は、今では驚異的な30%、40%を記録している。もちろんメディア事情が違っているが、「人が何を言おうが、自分が面白いものはやる」方が、「数字とにらめっこ」の今よりも高視聴率なのが皮肉ではある。 もう一点、2人に共通していたのが、平和主義と時の権力に反対する姿勢だった。巨泉は2001年に民主党から立候補して参議院議員になったが、その後の同党の安全保障問題への対応を批判して辞任した。永も野坂昭和如らと「戦争を語り伝える会」で活動。最近では自民党の憲法改正草案を批判している。  自由人が権力好きだったらある種の形容矛盾だから、2人が「反権力」だったのは、当然と言えば当然かもしれない。むしろ問題は、そんな2人に「愛想づかし」をされたテレビの側だ。自分は下らないと思うが大衆が(時には権力が)欲するだろうから番組にする。 テレビに自由人はいかほどいるか?       荻野祥三(元毎日新聞編集委員)

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