いま、改めて戦後を思う――貧しかったけど幸福だった 
③はじめてのアメリカ映画『ターザン』

NHKは、‘77年から’78年にかけて「日本の戦後」というスペシャルドラマを放送したが、その第1回「日本分割」の脚本は、ぼくが書いた。アメリカ国立公文書館で「日本分割占領計画――文書番号JWPC-385-1」が発見されたのをうけての企画だが、この計画は、戦後の日本をソ連、アメリカ、イギリス、中国で4分割して占領しようというもので、分割地図も用意されていた。
もし実現していれば、朝鮮、ベトナムのように南北に、あるいは、ドイツのように東西に分割されていたかもしれない。しかし、アメリカ国務省のPWC(戦後計画委員会)は、この計画を否決する。
理由は、アメリカが原爆を所有することになって各国のパワーバランスが崩れたことと、もう一つ、天皇の存在がかかわっていた。脚本の中で、ぼくは委員の1人で、開戦時の駐日大使、ジョセフ・グルーの発言を引用している。
「天皇は、例えて言えば、女王蜂のようなものです。女王蜂はなにも決定しないけれども、働き蜂から敬愛されている。もし女王蜂がいなくなれば、蜂の巣の社会は解体してしまうように、日本という国も戦後の再建における精神的支柱として天皇を必要としている。」
小学校で、天皇のために死ぬことだけを教え込まれていた中学1年生のぼくにとっては、その天皇が、はじめてマッカーサーを訪れた時の新聞写真が大ショックだった。
モーニングの正装で夏の略式軍装のラフな格好で立つ大男の隣に並ぶと、身長はその肩くらいだった。――「敗けたんだ」と心の底から実感した瞬間だった。
年が変わった正月元旦、天皇の人間宣言が出され、通学していた中学の正門脇には、戦争中、御真影(天皇の写真)を安置してあった奉安殿がそのまま残されていたが「カラッポなんだろうな……」と、ひどくむなしい気持で眺めた記憶がある。
やがて、雪国山形にも春が来てぼくは、2年生になった。学生定期も使えるようになったが、列車は相変わらず超満員。中学生たちはSL機関車の石炭車によじ登った。怒った機関助手に石炭をぬらすための蛇口から水をかけらたりしたけれど、平気だった。
そんなある日、学校帰りに初めて見たアメリカ映画が『ターザン』だった。

映画館は、1階は椅子席だったが、2階は板敷に薄縁(ウスベリ)が敷いてあって、客は履物と座布団を手に勝手な所に坐った。映画のストーリィは忘れてしまったが、ジャングルの川を泳ぐターザンの見事な肉体に見とれていた。それは、肋骨がうき出た自分の胸や銭湯で見かける日本の大人たちの裸体とは全く違う、異人種の肉体だった。

そして「やはりこれは負けるよなあ」とつくづく思った。

こんなこともあった。

「蛙の解剖記録」という宿題が出て、優秀作が玄関脇のガラスケースに展示された。5,6冊のノートがあって、内臓をとり出した後のスケッチの頁を開いて飾られていたのは、ぼくのノートだった。

一瞬、誇らしく、すぐ恥ずかしくなった。そのノートは、市販されているものではなく、父が会社から持ち帰った古い書類を裏返して、母が木綿糸で江戸時代の和綴じ本のように綴じてくれた自家製だった。和文タイプのインクが裏にしみだして、水彩絵の具で色をぬった解剖図を点々と汚していた。

級友たちは、だれもそのことにふれなかったけれど、ぼくはかなり落ちこんだ。そんなぼくを慰めるつもりだったのだろうか、汽車通学仲間で2駅先の天童から通っていたAが、土曜日に遊びに来るように誘ってくれた。そして、その夕食は、本当に久しぶりに、混ぜものが入っていない真っ白な米の御飯だった。

Aは後に東大を出て弁護士になった。

 

山形は平和だったけれども、東京は荒れていた。

冬の間、連日餓死する子供がいたが、戦災孤児たちも焼跡でたくましく生きはじめ、食糧メーデーでは、「国体はゴジされたぞ。朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね。ギョメイギョジ」と書かれたプラカードがゆれ、世田谷区民の米よこせデモは、皇居までおしかけた。一方で、極東軍事裁判が開廷し、プロ野球が再開した。

こんな東京に、ぼくは帰って来た。

そして、焼け残っていたわが家で、祖母も入れて6人、家族全員が久しぶりに一緒に暮らすことになった。

敗戦の翌年、‘46年8月のことだった。

 

恩地 日出夫(1955年卒 映画監督)

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