アラビア語翻訳事はじめ① アラビア語との最初の出会い

こちらは会員サイト内の「綱町三田会アーカイブス」コーナーに掲載されている原稿です。
アーカイブスは、時代の大きな流れの中に埋もれて、その人しか知らない出来事や、話さずにいた経験を後世に伝え残してゆくコーナーです

 

「郷に入れば、郷に従え」ではないが、石油危機の直後、図らずも経験した強い「カルチャーショック」を受けた自分が、アラブを巡る多少の経験から学んだことは「現地が真実であり、現場に従え」ということであった。

それは潰れた家業の印刷業を何とか再興し、家業もこれからという時期の第1次石油危機直後の1974年3月頃であった。東京晴海の展示場で見たイラン向け「ペルシャ語版鋳植機」に強い印象を受けたことだ。最初の出会いはアラビア語でなく、イランのペルシャ語モノタイプであった。
それは目にも止まらぬ早さで鉛活字を鋳造し、一定の寸法に組上げていく鋳植機である。当時としては、設備の充実した新聞社等と異なり、一般の印刷所では全て手作業で、予め鋳造機で鉛活字を鋳造し、字典「廣煕」の配列に従って作られたケースに詰め、並べられた活字ケースから文選工が1本ずつ活字を拾い、植字工が組上げていく手仕事の時代であった。それをペルシャ語で一気に鋳造、文撰、組版までをこなして行くその早さと、ペルシャ語という文字の珍しさに強いショックを受けた。
展示会ではメーカーの担当からペルシャ語用の特性を1時間程説明を受け、後日の再会を約した。私はそれまでアラビア語もペルシャ語もその違いすら十分理解していた訳ではない。そして偶然翌日の新聞で朝日カルチャーセンターでのアラビア語講座開催を知り、早速講座に応募した。この偶然が私の「アラビア語翻訳事始め」であり、その後の人生を決定付けられたことになる。
アラビア語講座は生徒50名を越えの超満員、オイルショックのためか企業からの派遣社員も多く、週1回の講座ながら、受講生はその難解さと取っ付きの悪さが原因で欠席者が急増、3週目にはがた減りの4分の1にまで減ってしまった。
それまでの自分は街の印刷屋の跡継ぎとして、文撰・植字・差替え・鋳造・印刷機操作まで見よう見まねで門前小僧並の職人として総てこなしていたのだ。印刷業としては大凡30年余の経験になるが、アラビア語を学び始めたのは45、46歳の頃だと思われる。家族によく40歳過ぎからアラビア語の勉強を始めたと言われていたから多分そうなのだろう。
アラビア語講座では外国語入門ではお決まりのアルファベットから始まり、一通り文法を終えるのに1週1回、半年の授業では全く手も足も出ない。それに授業は勿論半年ごとの新規募集で、当時中級、上級がある訳でもなかった。そこで、勢い熱心な者同士集まり、伝手を頼って個人のアラブ人や講習会を探しては数年に亘って会話の学習を続けるのが一般的あった。

展示会で知り合った業者とはその数日後に再会した。目的は唯一、アラビア語の母型を作るため、原型であるパターンを入手することにあった。パターンとは文字の原図でこれがあればアラビア語の母型を作ることができるし、写植文字も作れる。新たに作るとすれば、莫大な費用がかかる。当時の日本にはこの素晴らしい書体の文字を作るノウハウは皆無であった。幸運なことに業者がどうしてそのコピーを渡してくれたのか、いま考えても不思議に思えるばかりだ。この文字パターンは多分日本のモノタイプメーカーが当時ドイツかイギリスの写植機メーカーの Linotype社からイラン向け機器用に使用権利を得たものらしい。ペルシャ語のパターンを使えばアラビア語の母型を作るのにまずは問題ない。このパターンの入手と鋳造機操作の経験があって、アラビア語印刷への難関をクリア出来た訳だ。

1975 年頃は鉛活字でのアラビア語印刷で対応できたし、客先も簡単なものはタイプライターでも良いといった時代だった。アラビア語でタイプライターといえば定評あるドイツ製のオリベッティーだった。オリベッティーは文字同士繋がりの多いアラビア語にとって、その繋がり具合と文字スタイルには定評があった。これは日本のタイプライター専門業者がドイツから輸入出来た。その製造過程を見学したく、ドイツのメーカーに問合わせてもらったところ、問合わせの結果、あっさり断られてしまったそうだ。タイプライターの工場見学をしても当方にどれほどのメリットが有るかと問われれば、その得るところは殆ど皆無だろう。でも当時はそれほどアラブは遠く、アラブのことは何でも知りたかったということだ。極端に言えばアラブ人は何を食って生きているのか? と本気で考えるくらいの時代であった。

(堀口 睦年 株式会社 ロガータ会長  1954年卒)

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