満州・葛根廟事件

2023年8月14日、満洲・葛根廟事件犠牲者の79回忌が、東京・目黒区の五百羅漢寺で行なわれた。全国から生存者ら約40人が参加し、事件が起きたとされる午前11時40分、鐘の音に合わせ黙祷した。既に関係者が高齢化し、今回が最期の慰霊祭となった。
(編集委員会注、記事は読売新聞によった)

 78年前、終戦の年の1945年から1年有余、難民生活を送った中国・遼寧省安東(現・丹東)での体験は、満8才の少年にとってショックの連続だった。
 忘れられないのは、対岸の北朝鮮を望む鴨緑江の河岸、銃殺刑のシーン。猛暑の中、熱砂の川辺、囚人の一人が突然、河に向かって走り出し、流れに飛び込んだ。と、駆け寄った狙撃兵の銃弾を浴びた屍体が、流木と共に河下に漂って行く。その後の記憶は定かではない。貧血の発作を起こし気を失ってしまったからである。
 私たち一家が満蒙草原の僻地から南満州の国境の街、安東に流れ着いたのは8月14日、朝鮮との国境、鴨緑江を越えれば日本への帰国は約束されていたが、鉄橋はソ連軍に閉鎖され難民生活を余儀なくされた。
 それまでソ満国境近くの興安総省・興安街(現・中国内モンゴル自治区烏蘭浩特)に住んでいた私たち一家は、8月9日未明、日ソ中立条約の破棄を一方的に宣言して進行してきたソ連戦車軍団に追われ、翌10日、辛うじて現地を脱出、最後の貨物列車に飛び乗ったのだった。
 興安街の満州国モンゴル人陸軍士官学校で日本語を教えていた父は、安東では古本屋の番頭、母は呉服屋の店番、長男の私は孤児の仲間たちと闇市を巡り、タバコ売りをしながら日銭を稼いだ。
 未だ満10歳に満たなかったが、タバコも吸ったし、酒も飲んだ。毎日のように強盗、暴行、強姦などの事件を目撃した。連日、目の前に繰り広げられる“事件”は旧約聖書の「ソドムとゴモラ」のような大人の悪徳の世界。振り返れば当時は、幼い耳目を通り過ぎるだけだったが、人生入門の序章でもあった。
 安東における一年有余の難民生活は苦難の連続だったが、翌1946年(昭和21年)暮れには無事、故国、日本の土を踏むことができた。しかし、私たちと共に興安街に在留していた日本人の多くが逃げ遅れ、ソ連軍の襲撃を受けるなど苦難の連続だったことをのちに知った。
 私がその事実「葛根廟事件」の詳細を知ったのは、40歳を過ぎてから。新聞の消息欄に「旧満州・興安国民学校同窓会」の記事を見つけ参加した際、事件に遭遇した先輩から体験談を聞いた。その場で身を震わせ慟哭したことを今でも憶えている。
 興安街はソ満国境に近かったので、ソ連軍が襲撃してきた場合に備え、避難計画が出来ており、私たち一家は約1200人の日本人避難民と行動を共にする事になっていた。
 しかし、それより先、ソ連軍急襲の第一報で急遽組成された陸軍士官学校グループとして、他の日本人市民より早く8月10日の貨物列車に乗り込み脱出した。
 残された約1200人の日本人市民は、成人男子は殆ど応召されていたので婦女子や老人が大部分。一行が葛根廟草原でソ連戦車軍団の一斉攻撃を受けたのは8月14日午前11時40分頃だった。

 丘を越えて14台の戦車が現れ、臼砲と機関銃を発砲。歩兵隊は小銃を乱射し始めた。そこで、展開されたのは真夏の草原を赤い血で染めた白昼の大虐殺シーン。阿鼻叫喚の地獄絵図だった。「今はこれまで」と覚悟を決めてお互いに短刀で刺し合って果てた親子、青酸カリを仰いで死んでいった家族、携帯していた手榴弾を爆破させて集団自殺を図った一群。

 ジャーナリストだった私は、国民学校同窓会を機会に、葛根廟事件や安東時代の難民生活について改めて取材を始めた。

 戦前に内モンゴル興安総省に住んでいた人たちの集まり「興安会」は、毎年秋に東京・目黒の五百羅漢寺で法要を営んできた。境内には、葛根廟事件の物故者を祀る「興安友愛の碑」が建立されていた。それとは別に「葛根廟事件」の起った祥月命日(8月14日)には、戦前、興安街で建設業を営んでいた大島さん一家が主宰する「葛根廟事件命日会」が開かれていた。

 私は、これら関係者から話を聞き、夏休みを利用して戦前住んでいた旧満州の興安街や安東市を何度か取材に訪れ、一冊の自伝的ノンフィクション「満州少国民の戦記」(新潮社)を書き上げた。同書は文庫本化され、さらに現代教養文庫に収められるなど再販を重ねた。そして、このたびその原本にこれまで私が出席した満州関連のシンポジウム、座談会、対談、加筆したエッセーなどを収録して増補刷新した「総集編」が刊行される事になった。

 自著PRでいささか恐縮ではあるが、今日のロシア軍のウクライナ侵攻以来、戦前の満州の悲劇やシベリア問題が改めて浮き彫りにされている。そうしたデジャブ(既視感)と相まって今日の日本には“戦前的な再来”の世相が漂い始めている。

 ジャーナリストとして、戦争の語り部として改めて警鐘を乱打したい。本稿もそうしたキャンペーンの一環である。

 藤原作弥(元日銀副総裁)

Authors

*

Top