関東大震災を撮った3人のキャメラマン ~100年後に語り始めたドキュメンタリー映画~

先月(8月)25日、東京・両国。東京都慰霊堂でドキュメンタリー映画「キャメラを持った男たち・関東大震災を撮る」の特別上映会があった。この日も”酷暑“だったが、震災の遺族らおよそ200人が“100年前”にじっと見入った。
 1923年9月1日、11時58分。関東地方をM7.9の巨大地震が襲った。逃げ惑う人々は当時の広大な空地、陸軍被服廠跡地に避難したが、持ち込まれた膨大な家財道具に火が燃え広がり4万人とも言われる犠牲者が出た。当時の東京市は死者の霊を供養するため震災記念館を建てた。それが今の東京都慰霊堂である。
 100年前、大正時代の日本では映画という新しいメディアが大きく成長し始めていた。特に、ニュース映画は、その速報性と記録性が注目され、実は、多くのキャメラマン達が関東大震災の撮影に挑む事となった。
 今回のドキュメンタリーは、今日までかろうじて残されていた20数本のフィルムの撮影に関わった3人のキャメラマンの物語である。3人とは、映画会社「M・パテー商會」の岩岡巽(震災当時30才)、「日活向島撮影所」の高坂利光(当時19才)、そして「松竹キネマ研究所・東京シネマ商會」の白井茂(当時29才)である。
 この内、高坂は震災が発生すると、劇映画の撮影現場から被災地、東京・浅草などへ急行、9月4日には撮影済みフィルムを持って列車で京都へ。現像したニュース映画を夕刻には新京極帝国館で封切り上映するという離れ業をやってのけた。又、白井は震災翌日、今も同型が現存するアメリカ製の手回しキャメラ「ユニバーサル」で撮影を開始、その後の復興作業などもまとめて「関東大震・大火實況」として公開している。
 さて、3人目、岩岡は震災が発生すると「M・パテー商會」があった下谷区(今の台東区)根岸をスタート、周辺から次々と撮影現場を拡大していった。実は、今回のドキュメンタリーは、岩岡の撮影ルートを時系列で追って行く。編集された映像は音もなく、モノクロームの記録だが、100年前の現場を歩いている様な錯覚におそわれる。ドキュメンタリーは世紀を越えて語りかけてくる。
 ドキュメンタリーには、実はもう一人、影の主役がいる。田中傑である。田中は既に若手の災害史・都市史研究のエキスパートとして知られるが、今回の映画では、岩岡が撮ったと思われるフィルムを各カット事に分解・抜き出し・分析するという気が遠くなる様な作業に取り組んだ。
 例えば、東京・神田明神付近と思われる被災地の映像。登場する避難民の顔に当たる太陽光の具合、付近に残る建物の日陰などから撮影時刻を、又、映像にある電柱に見える住所、企業広告などから場所を特定する。こうした作業を各カット毎に進めて行く事で岩岡の撮影ルートを辿り、編集された映像に関東大震災が“再現”されてゆく。100年前が甦ってくる様だ。
 さて、東京都慰霊堂がある横網町公園には、朝鮮人犠牲者の慰霊碑がある。今回のドキュメンタリーはこの問題に触れていない。今日まで残った映像には関連すると思われるものは発見出来なかったというのがドキュメンタリー製作者の説明であった。
 最後に余談だが、田中傑の映像解析の手法は、実は、デジタル時代の今、SNS上に繰り広げられる無数の映像を追って事件を解決してゆく調査報道にも見られる。
 特に知られているのは、イギリスにベースおくIT集団「Bellingcat・べリングキャット」だろう。2014年7月17日ウクライナ上空で墜落したマレーシア航空のボーイング777機が、実はロシアのミサイルで撃墜されたことを明らかにした。彼らはSNS上にある映像、そして当時、現地を行き交っていたロシア軍など通信記録を追って行く事で犯人を明らかにした。
 田中傑の手法が、現代の日本の謎を追い詰めるデジタル手段としても開発されて行く事を望みたい。
陸井叡(叡Office)

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